旅についての記事が多いせいか、ときどき旅メディア(WEB系)からコンタクトがある。記事内容を引用したい、写真を使いたい、イラストを描いてほしい、など。最後のやつは別に旅に限ったことじゃないけれど、そういうのって素直にうれしい。なにかしら価値を認めてくれているわけだから。でも、いまのところは「使えるものならどうぞ使ってください」というしかない。プロではないからだ。周囲からはそれじゃダメだといわれるが。
でもまあゆくゆくは、ぼくも旅関連のメディアを立ち上げ、運営したい。とすれば各地のライターやイラストレーターを集める必要があるから、彼らの権利を守るために著作権管理は必要である。とはいえ、世の中にはすでにおどろくほど多くの旅メディアがあるので、特異性や提供価値をどうするか、自分なりに楽しく思案中である。
▲ Talin Estonia
まだ海外旅行そのものが珍しかったころは、旅のみやげ話に人が集まったかもしれない。でもいまはそんな時代じゃない。世界の隅のかなりレアな場所や体験であっても、立派なガイドブックをひもとくまでもなく、Youtubeや個人ブログで探せば得られる。Google Earthとストリートビューをつかって街歩きを疑似体験できる。もちろんそれは他人の旅であって、自分の旅ではない。あなたがもし旅を自分自身のものにするには、ときに情報は弊害にもなる。
旅の魅力の最たるは「発見」だ。それと「意外性」。自分の常識がたたき壊される瞬間こそ、おもしろい。
「英語がしゃべれないから」と海外旅行をためらう友人には「ぼくが行きたい場所はたいてい英語が通じないよ」と答える。言葉はときにジャマになる。便利がゆえに不便になる。ケータイやスマホがそうであるように。言葉に依存すると勘が鈍るのだ。旅先では、言葉が流暢な人があんがいだまされたりする。言葉に依存し、つい相手を観察することを怠ってしまうから。勘というのは、人間という動物が本来持つ危機意識が目覚めるからこそ冴える。だから「ハングリーであれ、分別くさくなるな」と故ジョブズも言ったのだろう。勘を働かす燃料は「自分の頭で考えること」だ。
▲ Ghardaia, Algeria
危機意識はまた、不安と言い換えてもいい。不安だから慎重になり、情報を渇望する。情報がまったくない国のほうが苦労はするけど、だからこそ印象深い。これまで旅した中でもっとも楽しかったのは、東欧・旧ソ連と北アフリカを回ったバックパック旅行(1986年)。インターネットやスマホはもちろん、ガイドブックもたいしてなかった。持ち歩いたのはトーマスクックの鉄道時刻表。それとまっさらなノート。これが旅の終わりに近づくにつれ、文字とイラストと泥で真っ黒になっていく。これから一生かけても、あんな印象深い旅はできないと思う。情報収集は勘と不安の積み上げであり、自分が作るものだとつくづく学んだ。22のときである。ヒリヒリするほどの感性もあった。
もともとぼくは日本が好きじゃなかった。日本も、自分が生まれた広島も好きじゃなかった。自分という人間が生まれ育んでくれたかけがえのない故郷。それを愛せなくてどうするんだという罪悪感。ちっぽけな自分をなんとかしたいという思い。まわりと自分が同じであることへの焦り。日本のロックは歌謡曲だ云々(元来ロック好きである)・・それらがないまぜになって広島を出たい、日本を出たいとエネルギーがわいていたように思う。
▲ Constanza, Algeria
広島を出て名古屋で学生生活を送っているとき、たまらなく広島がいとおしくなった。周りの人たちが自分が違うとき、意識するのは自我のこと。故郷は、だから遠くにありて思うものなのかもしれない。日本を出て海外で暮らしているうちに、日本がいとおしくなるのは自然のことだった。ドイツ人、イギリス人、フランス人、トルコ人らが揃うテーブルで、意見を求められれば、それはなおきん個人だけのことではなく、日本人として、広島人としても答えねばならない。だから日本を知らないことを自分で何度も恥じた。故郷を忌避していた自分を情けないと思った。歴史も政治も経済も、知っておくのは山ほどある。知れば知るほど日本がいとおしくなった。外国から見る日本は、宇宙から見る地球のように青く清潔に見える。
▲ Tokyo, Japan
いま「なんでも日本サイコー!」みたいな風潮がある。高じて隣国のあら捜しをし、悦に入るような意見を耳にする。かねてより自虐史観がこの国にあり、その反動も加担しているのだろう。たしかに史実が捻じ曲げられて伝えられてもいる。だけど日本を一歩も出ず、ネット情報ばかりで、都合よくあつらえた日本称賛論にはどうしても違和感を覚えてしまう。それではGoogleアースとストリートビューで旅行をした気分になるのと変わらないじゃないかと。
日本人と中国人は違う。アメリカ人とも違う。旅先では「何が自分たちと違うか?」ということを把握するだけでも、いろんな発見があって楽しい。そのいっぽうで「何が違わないのか?」を知ることはもっと大事なのではないか。人間や社会の本質は、まさにそこにあるからだ。楽しければ笑うし、悲しければ泣く。インド人もフランス人も韓国人も同じ。人間の反応なんてそんなに複雑じゃない。まして国単位、民族単位で識別されるものじゃない。彼我で変わらないもの。そのことを肌感覚で持てばどうだろう?少なくとも、無用ないがみ合いは減るんじゃないか。本質的に人間は他者とつながりたいと思うようにできている。旅先ではあらためてそう思う。
▲ Talin, Estonia
この世界に生まれ、さまざまな国の人たちと出会い、別れ、また旅をする幸せ
共感し、参加し合えるような旅メディアをいつか必ず作りたい。あなたにも教えてもらいながら、あちこち頭をぶつけながら、ひとつずつ積み上げていくようなメディアを。
ぜひよろしくお願いします。
▲ Liviu, Ukraine
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