タンブン(徳を積む)は納税に勝る
仏教の戒律では、坊主が貨幣に触れることを禁じている。
修行の身では所有物を持てないと教えからだ。
とはいえお坊さんとて人間、食べねば死んでしまう。それで毎朝托鉢(たくはつ)に回り、信者からお供え物を受けている。旅先のお楽しみとして、夜明け前の散歩を日課とするぼくだが、チェンマイでは托鉢中のお坊さんとよくすれ違った。ミャンマーやカンボジアも同様で、橙色は薄暗い中でもよく目立ち、なるほどそれでこの色かとひとり合点したものだ。園児の帽子と同じである。
多くの信者はこうしたタンブン(徳を積むの意)を通じて、家族や自分の来世を願う。毎日おこなう人もいれば、誕生日などの特別な日のほか、悪運が続いたり、気分や体調がすぐれなったり、旦那に浮気されたりした日などにタンブンする人も多い。ということは、よくないことが起これば起こるほど、坊主のお腹はふくれるのではないか?より良い世界を坊主は祈り、だが本当に良い世の中になってしまっては、食いぶちが減るのである。自己矛盾なのでは?とぼくなどはつい思う。徳が低いわけである。
お坊さんの托鉢ルートには、ちょうどいい具合に屋台が出ており、しっかりお供え物セットが売られている(だいたい20~30バーツくらい)。これを買い求め、お坊さんに近づきひざまずいて手を合わせれば、坊主はそれを自分の鉢に移し、教文(ありがたいお言葉)を唱えてくれる。屋台の胴元を疑いたくなるが、さらに徳が減りそうなので追及しない。朝もやがたちこめる街角でそのような光景をみれば、さぞ幻想的にちがいない。
托鉢中のお坊さん(カンボジア、プノンペンで撮影)
ある意味これは「仏閣参拝の宅配システム」なのではないか。寺院へ足を運ばずとも、向こうから出向いてくれるのだから。しかも個々に教文をたれ、清められた水を与えてくれる。そのうち、「タンブンはずめば30分以内に参上!」というエクスプレスサービスだって登場するかもしれない。さっそうとスクーターに乗ったお坊さんが、袈裟をなびかせやってくる。なかなかの風情である。中にはいささかメタボなお坊さんがいる。そのため屋台では低カロリーなお供え物セットが用意されているそうだ。メタ坊主にはダイエット供え物、というのが正しいタンブンである。しかと念頭に入れておきたい。くれぐれも胴元は聞かない約束だ。
タイ人は税金をろくに払わないのにしっかり寄進はすると聞き、なんて功利主義なんだと思う。その一方で、だからこそ古今東西の支配者(政治家)は、民衆を統治するのに宗教を利用したことにも納得だ。民衆は自分や家族の幸せを願い、為政者は国庫や身の回りを富ませたい。両者の利害が一致するのが宗教、というわけである。
忘れていたが、ぼくは仏教徒であった。
中学のころは仏教校に通い、強制寮では毎あさ毎ばん勤行(ごんぎょう)でお経を唱えもした。それでいっぱしの人間になれたかどうかは疑わしいけれど、祈りに身が清められた感覚はいまも残っている。幼稚園時代はイエズス会のキリスト教学校にバスで通っていた記憶もあるが、たぶん記憶違いだ。外国人から「おまえは仏教徒か?」と聞かれれば「そうだ」と答えていた。いささか後ろめたいものがあるが、国外には信仰心のない者を信頼しないという考えがある。それに、かつて無宗教者は共産主義者と疑われた時代もあったのだ。よけいな心配はかけたくない。
猿に説教をたれてみる (カンボジア、アンコールワットで撮影)
仏教とモノ離れは、相通じるもの
そんな仏教がいま、日本で見直されている。
ミニマリストと自称する「モノを持たない主義」の風潮はまさに仏教のそれだし、ロングセラー中の「怒らない方法」的な書籍も、仏教の教えを説いたものだ。日本にある寺院は全国で7万5千あまり。人口が日本の半分というタイの寺院数は3万というから、ひとり当たり寺院数(そんな統計がもしあればだが)は、意外にも日本のほうが多いのだ。
日本の人口が減り続け、地方自治体が相次いで消滅する中、寺院数もまた減る運命にある。寺院を支える檀家もめっきり減った。ドル箱である葬儀にしたって、いまじゃアマゾンで注文する時代だ。これじゃやってけないと住職は嘆く。タイやミャンマーの寺院はますますきらびやかになる一方で、日本で廃れつつある寺院の数。ゆゆしき問題である。では日本人の仏教に対する思いも同様に廃れているのかといえば、どうもそうではないらしい。
むしろ日本はいま、ひたひたと静かな仏教ブームがおしよせている。仏閣参拝者の数や参拝回数は増え、仏教を学ぼうというひとは着実に増えている。初詣客は年々増え続け、いまや9千万人以上を数える。ぼくなんかたまに忘れる年もあるのに、かつてないほどの盛況ぶりである。また「仏像をみていると心が穏やかになる」という若くて綺麗な女性や、知的な中年女性が増えているそうだし、ぼくもしょっちゅうそう思う。
またサラリーマンをリタイアした団塊世代が、人生の節目として仏教を習う風潮もあるようだ。よりよい晩生を過ごすためにも、なにかしらの導きを求めるのも人間の性である。モノが不足していたころに幼少~青年期を過ごし、その反動もあってモノを所有することで幸福を実感してきた団塊世代、「消費は美徳」「贅沢は素敵だ」とばかり、はじけ散ったバブル世代(ぼくのことだ)。その反省か反動かはしらないが、晩年は「欲望に執着しない」「無常なものに執着する煩悩から解放されたい」と考える傾向が強まっていく。これも仏教の考え方そのものである。情報過多な世の中にうんざりし、静寂と集中を求めるビジネスマンや子育てママもいる。こうして仏教は、求められるべくして深く広く浸透していくのだ。団塊ジュニア世代よりやや若い世代では、モノ離れがはなはだしいが、これも偶然ではなく必然なのかもしれない。時代は仏教を求め、仏教が教示する世界を求めている。先日訪れた北鎌倉の「円覚寺」では、朝の坐禅会(暁天坐禅会)が大人気、早朝なのに予約が取れないほどの盛況ぶりである。喝!
ミャンマーの袈裟はややえんじがかった色 (ミャンマー、バガンにて撮影)
坊主バーだってある
坊主バーが四ツ谷に開店したのも、そんな流れを汲んでのことかもしれない(お店情報)。「現役の僧侶と楽しく過ごす」がモットーで、カクテルに「極楽浄土」や「無間地獄」なんてのがあって楽しそうだ。近いうちに立ち寄り、どんな味か試してみたい。カクテルメニューには他に「愛欲地獄」なんてのもあるが、それで現役僧侶と楽しく戯れるというのもいかがなものか。なお、毎週月曜日にはタイの仏教伝道使による瞑想会なども開かれているとWEBサイトにあった。ちなみに「会費はお布施で」ということだ。さっそく、タイの屋台でお供え物セット(60円~100円)を買って参上したい。
坊主に托鉢する他に、タンブンになる行為は次の通り。
- お寺に寄付をする
- 出家する
- 息子を出家させる
- 小鳥や魚を逃がしてあげる
- 五戒(殺生、盗み、犯す、嘘を付く、飲酒)をしない
さすがは上座部仏教、戒律が厳しい。小鳥や魚は逃がしてあげねばならない。まして坊主においては現金に触れることはご法度である。タイはとくにその点、厳しいのだ。
(↓タイ、チェンマイにて撮影)
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