さいきんもの忘れがひどくなった。
そう思っているのはあなただけではないかもしれない。ああ、もどかしい!ここまで思い出しかけてるんだけどな・・と、まるで記憶の便秘状態に苦しむことも。
それは加齢のせいかもしれないけれど、それだけじゃない。代わり映えのしない毎日、刺激のない毎日のせいかもしれない。きのうやおとといと変わらないきょう、記憶に残らない日々。そういえばおとといの昼、なに食べたか思い出せないという人もいる。なにを隠そうぼくなのだけど。
映画を観てきた、というひとに「どんな映画だった?」と聞いても、まあまあだった的などこにでもあるような答えが返ってきたりしないだろうか。俳優は?とか、時代背景は?などと聞けば、ポツポツ答える。だがそれまでだ。でも映画を観る前に「どんな映画だったかあとで教えて」と言っておけば、感想はずいぶんとちがってくる。あとで教えてあげられるよう、そのひとは意識して映画を観るだろうから。ストーリー、登場人物、なにが一番良かったか(悪かったか)、感動した一言、自分だったらこうする的な自己投影。脳はこのとき、意識して映画の内容を入力しておこうとする。
ありがたいことにぼくたちの脳は、見たり聞いたりした情報はすべて記憶するようにできている。と、脳神経専門外科医であり医学博士の築山節氏はいう。だから同じ情報をもう一度みたとき「これ知ってる」と思い出すいっぽうで、思い出したいときに思い出せない。理由は意識して記憶していないからだという。情報を意識的に脳に入れる、つまり「自由に使える記憶」にしておくためには、人に伝えることを前提に情報を取ることが大事である。さしずめ前述の映画の事例では「あとで教えて」に答えられるよう、情報を整理しながら脳に入力をする行為といえる。
ブログを書き始めてから10年になるが、得たものは多い。ひとつは「自由に使える記憶」がそうかもしれない。これを読んでいるあなたに伝えるために、ぼくは意識して情報を入力してきた。そのとき、どうすれば伝わるか、表現できるか、など常に意識するクセがいつのまにかついた。だからイラ写に書いてきた情報や経験は、なかなか忘れないものである。
ぼくはライフスタイルとして定期的に旅に出る。そして何年も前にした旅の記憶や体験がいつまでも瑞々しいのは、このイラ写のおかげでもある。旅先の出来事をイラ写に書くとなれば、なんでも見て体験してやろうという気になるものだ。ふだん億劫がってやらないことも、恥ずかしくて出来ないことも、イラ写の記事だと思えばやれちゃうのだ。これは自分の行動範囲や、未知の経験を呼びよせるはたらきすらある。見て、食べて、他人に声をかけて、ふだんしないような苦労をして、そんなひとつひとつの行動が意識して脳に入力されることになる。
それらを通じて思うのは、なにもわざわざ旅に出なくたって、ふだんの日常でそれをやればいいだけのこと。一期一会なのだと思えば、他人との接点が楽しくなる。面白おかしく誰かに伝えたいと思えば、面白おかしく毎日を過ごしてみたくなるんじゃないか。
代わり映えのしない毎日。
そんな毎日もあなたの人生の二度と戻らない一日に違いない。でも代わり映えのしない毎日は会社のせいではないし学校のせいでも親のせいでもない。安倍政権のせいでもない。あなたや自分自身のせいである。
今日あったことを誰かに教えてあげよう。教える相手がいないならブログでもいいし、フェイスブックでもいいと思う。ただ紙に書くだけでもいい。
「自由に使える記憶」で
引き出しがひとつ、ふたつ増えた。
そんな毎日が送れますように。
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