香港に住み始めたのが2000年の10月。
イギリスから中国に返還されたのがちょうど3年前の1997年10月。返還スケジュールが決まったのはさかのぼること1984年、天安門事件が起こったのが1989年。そのたびにヤバイ!と人々は香港を脱出した。一党独裁体制の国に飲み込まれては、自由は奪われ、資産だって危ない。そう危惧した。わが身は脱出せずともまずは資産を海外に避難させ、それから家族を避難させたひともいた。子を現地で産み、国籍を得る。例えばカナダ人の子の親もまたカナダ人というふうに。そしていよいよ危なくなったら自分も香港を去ればいい。中流以上の家庭はたいてい複数のパスポートを持つが、それにはこうした理由もある。天安門事件はまだ生々しい。自由と民主を求めて立ち上がれば、戦車と実弾で抑え込むのが中国共産党の正体である。
あのころ「あなたは中国人ですか?」と香港人に聞けば、たいてい「そうだ」と答えてきた。少し意外な反応。ちょうど中国がWTOに加盟するというタイミングあってか、中国もやがて世界に開かれる国になる。そう信じるビジネスマンが多かった。経済特区に見られる著しい経済発展。その先にはよりよい生活を求めている12億の市場がある。その市場と世界を結ぶ橋渡し役を自分たちがやる。そんな自負があった。返還させられた自分たちが中国人のようになるんじゃなく、中国人が自分たちのように自由で民主的に変わっていくのだと。それは世界の潮流だったかもしれない。ドットコムバブルはこの世を謳歌していた。ITは人々をしあわせにする。中国もまた世界をしあわせにしてくれると。
香港での暮らしが始まった翌年、ドットコムバブルがはじけた。あおりを受けてぼくの会社のオーナー会社もつぶれた。少し経ってからSARSが流行り、香港経済はシュリンクした。SARS騒ぎが終わってみれば、湧いたように本土からの旅行者が増えた。道に唾を吐き、ごみ箱を子供の用足しに使う。大声でしゃべり、マナーに疎い。そんな連中に香港人たちは眉をひそめ、いっぽうで彼らが落とすカネをありがたがった。このころの経済回復はチャイナマネーによるところが大きい。たとえば本土からの旅行者は日本人の何倍も多いが、ひとり当たりの使うカネも中国人のほうが多い。2005年、ぼくが香港を離れるタイミングに香港ディズニーランドが開園した。さっそく本土からの客が大挙して、通りのごみ箱をトイレに変えたときく。
チャイナマネーはまた、香港の不動産を高騰させた。あまりキレイな原資でもないのだろう現金をそろえ、一括購入する。相場は上がる。不動産を所有する人は喜ぶが、しない人にとっては迷惑以外のなにものでもない。家賃の高騰に生活は苦しくなった。いま世界で最も高い土地は香港の銅羅湾(コーズウエイベイ)である。
その銅羅湾を走るメインストリートはいま、占拠する人々で地面が見えないほどである。セントラルもアドミラリティもチムサッチョイも旺角も同様だ。その数18万人。もっと増えるかもしれない。人口700万人の香港にしてみれば相当な数である。さらに野次馬、報道メディア。これを制する警察隊。デモの主張はただ一点、香港行政長官を選ぶ普通選挙の実施である。それで過去何度もデモが発生した。そんな経験から中国から推薦してくる人物ではなく、自分たち香港人による普通選挙でトップを決めたい。そもそも「港人港治」は返還を渋るマーガレット・サッチャー(元)英首相に鄧小平(元)国家主席が主張したことである。
「香港人による香港の治世」、2047年まではこれでいく。
この約束は反故にされるのか? そんな大きな不安の背景に、いまも中国各地で起こる年間20万件にも及ぶ暴動や汚職などがある。ウイグルやチベットで行われている民族浄化がもはや隠せない。政府がしたいようにすることに楯突くやつは逮捕し、投獄し、拷問する。その前ぶれに言論統制がおこなわれ、見せしめに家族に危害が加えられる。一時期期待した中国の自由民主化は幻想で、やっぱり独裁政権による人治が横行するのだ。2047年には香港もそんな中国の一都市になってしまう。だが自分たちで香港のトップを選ぶ普通選挙も実現しないのなら、10年待たずして香港は中国のようになってしまうんじゃないか。現に中国は香港で起こっていることを国内で隠している。政府にとって都合の悪いことは隠し、黙らす。
デモ隊に向かって催涙弾が撃たれる。デモ隊は「催涙弾なんかなくても、おれたちとっくに泣いている」と返す。彼らは自分たちの声がどこに届くか、ちゃんと知っている。
このデモ鎮圧が悲劇を生まないことを切に願う。
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