北アフリカにあるフランスの植民地だった国。
なさけないことにぼくのアルジェリアの知識はその程度。初めて南フランスを訪れ、マルセイユやニース、オレンジ、アヴィニョンを回り、その魅力にすっかりとりつかれ、そのことを人に話していたとき、「地中海を挟んで反対側にもこれと似た街がある」と聞いた。それがチュニスでありアルジェであった。
16世紀のアルジェリアはオスマン・トルコの治世下ではあったけど、独立国であった。フランスとも国交があり、他のヨーロッパ諸国とも通商条約を結んでいた。1783年、アメリカがイギリスから独立すれば、アルジェリアは先駆けてこの新生国家に正式な外交的承認を与え、1793年、こんどはフランス革命で革命政府が誕生したときには、多額の借款と大量の小麦を提供してもいる。アルジェリアは「援助する側」の立場だったのだ。
アルジェリアから小麦を買っていたフランスは、その購入代金を借款に頼っていた。当時、フランス革命政府は貧しかったのだ。ある日、その支払いについて話し合っていたとき、フランス領事がアルジェリアのフセイン元首に対してあまりに不遜な態度を取るので、フセイン元首は怒り、ハエたたきでフランス領事を打ち据えたという事件が起こる。いわゆる「ハエたたき事件」である。
という名称かどうかは知らないけれど、これをきっかけに1830年フランスは出兵。4万人の兵を送り込み、首都アルジェを陥落させた。フセイン元首は退位し、フランスは1億5千万フランの財宝を戦利品として押収。まさに恩を仇で返した感じである。あんまりであるが、これを機にフランスのアルジェリア植民地制作が始まった。フランスは本国の5倍の面積を持つアルジェリア領土を得たのだった。
アルジェリアはフランスの植民地になる前は、むしろフランスを支援していた感謝すべき国であったことは知っておくべきだと思う。なんとなく、80年代から中国をODAなどで経済支援していた日本を思わせるものがある。
アルジェリアはフランス内務省の管轄となり、「海外県」という位置づけとなった。本国や他のヨーロッパからぞくぞくと入植者が増え、同時にインフラも整っていった。入植者は「コロン」と呼ばれ、この地に格差社会をもたらせた。アルジェリア独立戦争の直前(1954年)で、コロン側の平均年収24万フランに対し、ムスリム側はわずか1.8万フランでしかなかった。
そんなことを思いながら、アルジェの街をそぞろ歩く。
なるほどここは南仏に似てるが、いくぶんそれよりうらぶれて見える。行き交う人はバッグのようなものはほとんど持たず、手ぶらである。せいぜいバケットの入ったビニール袋か、ガラケーを持っているだけだった。ぼくを視界に認めると、必ず何か話したそうにする。何人かはジャポネ?と聞くが、半分以上はニーハオ!と中国人と間違える。ここを歩く東洋人は、日本人より中国人が多いのだろう。
足を止めて振り向くと、うしろにクスクスと笑いながら着いてくる子供達の姿があった。
▲ 古いアパートの間から地中海が見える▲ まるで地中海沿岸にある南仏の都市のようなたたずまい▲ これを撮影していた時、ぼくに口笛とともに声を掛ける人がいる。この先はカスバだから一人で歩かない方がいい。と忠告された。▲ 忠告してくれたムハメドさん▲ かまわずカスバの中に入ると、悪ガキたちから声をかけられる。ヤバイなあ、と思いつつ
カメラを向けるとポーズをとってくれた。▲ カスバを抜けると海岸沿いに建つエル・ジュデット・モスクがあった。新しそうにみえるけど、オスマントルコ時代の1660年に建てられた歴史あるモスク。▲ 午後の大通りもラマダンということで全て店がしまっていた。コーヒーの一杯も欲しいところだけど・・・
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