ある会食の席で、たまたまぼくがブログでイラストを描いているということが話題になった。以前、ぼくに似顔絵を書いてもらったことがあるという発言もあり、じゃあさっそくここにいる全員のを描いてもらおうじゃないかということになった。ええっ、7人全員を!?
できれば末席で静かにワインを飲んでいたかったのだけど、日頃お世話になっている人たちでもあり、さすがに拒めない。ばたばたとお店のスタッフから紙とペンが用意され、さっそく描きはじめることに。
いうまでもなく似顔絵は不得意である。似てなければひんしゅくを買うし、似れば似てたで本人が傷つくことも。とくに女性の似顔絵は、もうほんとうにニガテである。たぶん、以前からイラ写に来ていただいているあなたなら納得してくれると思う。
でもまあ、紙片に描かれた似顔絵を全員で回し見しながら、「これはひどい!」「いいねえ!」「えーこれがぼく?」「ショック!足はもっと細いわよ」などと、絵を見ながらわいわい騒ぐひとたちを眺めていると、なんだかしあわせな気分にもなってくる。描きたての自分や他人の似顔絵を見ると、不思議とだれもが笑顔になるからだ。ぼくは、これまで自分が描いてきたどのイラストも満足したことがない。あれだけ描いてもちっとも上手くならない。とくに、ろくに相手を見もせず1〜2分で描き上げる「飲み会にがお絵」に至ってはそうだ。それでもまあいいじゃないか、と自分では思う。もともとぼくにとってイラストは会話の一部である。絵を使った筆談である。
ぼくは紙にイラストを描くとき、いちど頭のなかにイメージを描く。それが下書きだ。紙にはただそれを描き写すだけ。問題はその描くイメージだ。ありのままなら写真ですむ。せっかく自由に線を引けるのなら、それなりにちょっと手を加えたくもなる。その人の話しぶり、しぐさ、ただのぼくの思い込み・・そういうものを線にして、少しだけ大げさに描く。だから、描いた絵を見て「これって性格がよくでてるよね」と言われるとうれしくなる。描くのに夢中で、出された食事が目の前でどんどん冷めてもちっとも気にならない。
相手の似顔絵を書き終えたとき、ぼくの中で相手との距離が少しだけ近くなっていることに気づく。イラストを見て反応してくれたからかもしれない。がその前に、相手が持ち備えるさまざまなイメージを自分の脳裏に映し出したりするからだと思う。だとすれば、たとえ下手でもイラストを描くのってまんざら悪くない気がする。
さらに気づくことがある。
それは、人の外見と中身はぜんぜん区別されていないということだ。よく「人は見た目が9割」なんてことをいうが、それ以上である。外見はいちばん外側の「内面」にすぎないのだ。隠そうったってにじみ出る。
イラストを描いているとそのことがとてもよくわかる。
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