台風30号の爪あとが今なお生々しいフィリピン沖で、自衛隊ヘリ空母「いせ」にアメリカ軍のオスプレイが着艦する写真を見て、しみじみと感慨深い。
この場所はまさに1944年10月、太平洋戦争中最大の激戦といわれるフィリピンの戦い。日本軍とアメリカ軍の間で死闘が繰り返され、両軍あわせて35万人もの戦死者が出た(うち33万人は日本軍)。あれから69年、こんどは日本とアメリカが協力しあって、大勢のフィリピンの被災者を救済しているという事実。感慨深くないわけがない。
フィリピンはアメリカの植民地だった。
それを1942年、攻め入った日本軍によりアメリカ軍を撃破、これを追い出す。翌1943年フィリピンは独立した。その後日本軍はしだいに劣勢になり、1944年フィリピン奪還に戻ってきた数倍のアメリカ陸海軍を迎え撃つことになった。神風特別攻撃隊(神風特攻隊)が組織され、実戦投入されたのはこのフィリピンの戦いが最初。そしてレイテ沖海戦がその天王山となる。戦艦武蔵が沈み、大和が被弾した。ついには日本空母艦隊が全滅した。
戦後の平和教育の成果もあって、日本人の間では神風特攻隊はおおむねネガティブである。「ほとんど効果はなかった」とし「特攻隊員は犬死だった」と伝えられた。また「狂信的で人道に欠く」ともいわれた。ぼくが中学校のときは、神風特攻隊の実写フィルムを鑑賞するという授業があった。アメリカの軍艦に向かって飛来する特攻機。それが一機、また一機と撃ち落される。そのたびに教師は拍手をし、生徒に同じようにさせた。皆おとなしく従っていたが、いまならこの教師を殴り倒していたに違いない。
250kg爆弾を機体に固定し、敵艦船に体当たり攻撃する。攻撃が成功することはすなわち死である。平和時のいまからすれば、狂信的だと思えなくもない。だけど命を引き換えに守るべきものがあった。それは郷土。国であり愛する家族である。自己犠牲の精神は武士道そのものだが、一般の日本人にとってもなじみ深い。だが武士道はGHQによって危険と判断され、戦後教育では武士道を美化しないよう徹底された。戦前の日本の偉業は消されたか、曲解するよう操作された。今後自分たちに歯向かわないよう「日本を弱いままにしておく」ことが必要だったのだ。
一方、海外の神風特攻隊の評価は高い。
相手国だったアメリカやイギリス、フランスなど欧米国。台湾、ミャンマー、マレーシア、インドネシアなどなど。特攻隊が出撃したフィリピンのマバラカット東飛行場の跡地には、フィリピン政府によって建てられた神風記念館(Kamimaze EAST AIRFIELD PEACE MEMORIAL)がある。地元の人達はいまも特攻隊員のことを英雄と崇め、永遠に記憶にとどめるべきだと後世に伝えている。1983年、マニラ国際空港で暗殺された(衝撃的でした)アキノ氏は、このマバラカット近くの生まれてあることを誇りにしていると日本の新聞記者に語っている。
▲ Kamikaze East Airfield Peace Memorial フィリピン
神風特攻隊はフィリピンの戦いのほか、沖縄戦でも実行された。「大した効果はなかった」と喧伝されてはいるが、どうも意図的にそうしたふしがある。リチャードベイツ米海軍中将は「日本の奴らに、カミカゼが軍に多くの被害を与え、多くの艦を撃破していることを寸時も考えさせてはならない。だから我々は艦がカミカゼの攻撃を受けても、航行できる限り現場に留まって、日本人にその効果を知らせてはならない」と命令した。おそらく敵を勢いづかせたくなかったからだろうし、講和条件が不利になることを恐れたに違いない。
特攻による命中率は2割程度とされていたが、実態は56%もあった(戦後公開された米軍の機密公文書による)。被害一覧は次のとおり。
- アメリカ海軍
- 被害: 撃沈 30隻、撃破 292隻
- 戦死:12,000人以上
- 戦傷者:多数
- 恐怖で精神をやられた者:多数
- 神風特攻隊員
- 戦死:5,845人(海・陸軍あわせて)
▲ 神風攻撃により爆発を起こす米空母
カミカゼ攻撃による効果は圧倒的であった。
隊員たちは主に10代後半から20代の青年で、どちらせにせよ日本は負けると知っている者も多かった。ならば一矢報い、少しでも講和条件を有利にしたいと考えた。つまり戦後の日本人を守ろうとしたのである。
隊員たちは自分のことよりも、残されていく両親や子供、奥さんのことを案じていた。そのことは彼らが残した遺書を読めば痛いほどわかる。たとえばこんな遺書がそうだ。
素子(もとこ)、
素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思ってお父様が考へたのです。 私はお前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、仕合せになったのをみとどけたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまっても決して悲しんではなりません。
お前が大きくなって、父に会いたい時は九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれぱ、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると眞久さんに会っている様な気がするとよく申されていた。
またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護って居ります。
優しくて人に可愛がられる人になって下さい。お前が大きくなって私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。
昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ
追伸、
素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教へて上げます。(植村眞久大尉 東京都出身 立教大学卒 25歳)
生まれたばかりの娘への思いがひしひしと伝わってくる。どんなにわが子を抱きしめたかったことだろう。娘が大きくなったある日「私のお父さんはどこ?」と母親に聞く。そのときのためにと残した手紙。死への未練はみられない。だが娘が悲しまないようにと、そのことばかりを案じているのがうかがえる。
もうひとつ。
こんどは妹に残した手紙である。
なつかしい静(しい)ちやん!
おわかれの時がきました。兄ちやんはいよいよ出げきします。この手紙がとどくころは、沖なはの海に散つてゐます。思ひがけない父、母の死で、幼い静ちやんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。
兄ちやんのかたみとして静ちやんの名であずけてゐたうびん(郵便)通帳とハンコ、これは静ちやんが女学校に上がるときにつかつて下さい。時計と軍刀も送ります。これも木下のおぢさんにたのんで、売つてお金にかへなさい。兄ちやんのかたみなどより、これからの静ちやんの人生のはうが大じなのです。
もうプロペラがまはつてゐます。さあ、出げきです。では兄ちやんは征きます。泣くなよ静ちやん。がんばれ! (大石清伍長 大阪府出身 飛行学校卒 戦死)
妹思いの兄。だが戦況は厳しい。やはり自分が死ぬことよりも妹のこれからを案じている。飛行機に乗り込み、エンジンがかかる。死に場所となるコクピットで遺書を書く。どんな思いだっただろうか。「泣くなよ静ちゃん。がんばれ!」そうしたためながら、どんなに会いたかったことだろう。顔はもうくしゃくしゃ、だがぐっと涙はこらえる。周りには彼を見送る上官や部下、整備兵などがいる。武人の本懐を意識する。手紙を書き終えた大石伍長はそばにいた整備士にそれを渡し、妹に届けるようにとことづける。次の手紙はそんな整備士から、大石伍長の妹さんに送られたものだ。毎日特攻隊員を見送る整備士たちもいたたまれない思いだったに違いない。
大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます。わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました。そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。
伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやう(特攻人形)を大へんだいじにしてをられました。いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました。ほかの飛行兵の人は、みんなこし(腰)や落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つておんぶでもするやうに背中につつてをられました。飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。
伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう。同行二人・・・・仏さまのことばで、さう言ひます。苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう。けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます。
伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出してべんきやうしてください。さやうなら (大野沢威徳 万世基地)
わずか数十年前の日本人の姿である。
心やさしく力強い。そしてせつない。
彼らが身を呈して残してくれた日本にぼくたちは生まれた。だがぼくたちは彼らの犠牲を真に受け止め、引き継いでいるだろうか?たった一度戦争に負けたとたん「日本は反省すべきだ」などと言い出す知識人の小賢(こざか)しさ。戦後の価値観で戦前の日本を断罪してみせるひとたち。そんな人達の言論をみて「日本人みずからそう言ってるじゃないか」と、反日の根拠に乗じる中国や韓国。彼らの声が大きいからなだめておこうと、よく考えもせず謝罪や反省をし続け、あげく、残された多くのものを失った。そもそも誰に何を反省しているのかさっぱりわからない愚かしさ。周辺でエスカレートする反日行為は、こうした戦後直後から積み上げられた小賢しい行為の成れの果てでもある。
▲ 米戦艦に体当たり寸前の特攻機
フィリピンで亡くなられた日本軍将兵。
彼ら英霊たちはいま、フィリピンの救済のためにアメリカ軍と協力しあっている自衛隊員達を見てどう思うだろうか? ぼくは思うのだけど、きっとよろこんでいるに違いない。自ら投げうった命。それは個人の恨みつらみを晴らすために捨てたんじゃない。残されるものたちを思い、それを守るためにやったのだ。
彼ら英霊を想うたび、たしかに反省したくなる。
最近のコメント