たとえば鉄瓶のある暮らし。
岡倉天心の「まあ、茶でも一口すすろうではないか」ということばが好きで、たまに頭や舌に浮かべてみる。家に居たなら、誘発されたように鉄瓶で湯を沸かしてお茶を飲む。なにも鉄瓶でなくたってとも思うけれど、湯を沸かすたびにに少しずつ溶けこむ鉄のまろやかさがもっぱらやみつきである。
できれば薪で沸かしたいが、あいにくのIHコンロである。それでも鉄瓶で沸かす湯は、それなりにうまい。買って半年、一年使ってようやく期待していたまろやかさがでた気がする。いい年してたいした暮らしぶりでもないが、いれたお茶が美味しければそれだけでまんざらでもない、と思えてくる。
いつしか人は悩み、心がそのことでいっぱいになる。「悩むだけ悩めばいいさ」と開き直るのも手だけど、顔に深くしわをきざみ、心に青あざを作るくらいなら「喝!」と断ち切ってみせるといい。考えてもしかたのないことを考えていると気づいたら「かぁつ!」とやる。ぼくはだいぶ昔から試してるけど、あんがい効きます。それから目の前で手をパン!と叩いておしまい。とあるお坊さんに至っては、まいばん自分の葬式をあげて寝床に入り、毎朝生き返るように目をさますのだとか。さすがはプロ。発想が輪廻じみてる。
▲ お茶はもっぱらハーブティー
とどめないこと。
いやな気分は溜めずに流す。
まあ、茶でも。
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