おなかがいっぱいになると動きたくなくなる。
情報もまた、そうではないか。
ある食事会の席で、毎年ひとりで旅に出る趣味について話したところ「なんで予約とか下調べとかしないんですか?」と30代の人に詰め寄られた。たいていのことはネットでできるのに、と。そのとおり、とぼくは認める。たいていのことはネットでできる。でもしない。ひとそれぞれである。「はじめからわかっていたら行く必要ないじゃないか」と答えると、なんだか気の毒そうな人を見る目をこちらに向けてくる。なんで?
ネットとモバイル端末(ケータイ or スマホ)のおかげでぼくたちは、10年前と比べてもずっと検索が実用的になった。グーグルなどの検索エンジンの進化はものすごく、余計なサイトがひっかかりにくくなり、知りたい情報にアクセスしやすくなった。技術の進化もスゴイが、それを使える人口が加速度的に増えた。いまじゃ、70代のオトンですら条件検索など使ってみせる。
そのことは歓迎すべきだと思う。だが「手放しで」というわけにはいかない。おかげで集中力が削がれ、じっくり考えることが希薄になった。いや、考える時間すらもったいない気すらする。町中でぼぅ〜っとしている人を見かけなくなった。たいてい手に何か持ち、それを覗いたり指でさすったりしている。なにがそんなに辛いんだろう的な仏頂面して「うれしい!(はあと)」などと打ち込んでいる。
日本はあまりに快適過ぎて、ぼくなんかすぐにボケてしまいそうだ。もともとなまけ者なのだ。テクノロジーがなまけ癖に追い打ちをかける。ネット環境もスマホも進化しますます便利に。そのことでさらにラクになる。ラクになるのはありがたいが、どこかでこのままじゃヤバイ、という気もしてくる。簡単に得られる知識で頭がいっぱいになり、思考するリソースが不足してしまうからだ。たぶんその傾向はぼくだけじゃない。世にある情報が、どれもどこかで聞いたような模範解答ばかりに思えるのは、このせいじゃないだろうか。
名もない旅先のように情報が少なく言語も不自由な場所では、視覚、聴覚、嗅覚、感覚などセンスをフルに使ってそれを補おうとする。知らない他人に抗議してみせ、読めないメニューから料理を選び、通りが危険かどうかを嗅覚で察知する。どれも居心地のよい場所では必要のない行為だ。疲れ、くり返すうちに疲弊する。ストレスがたまる。だけど五感はフル活動。ボケた脳にガツンとくる。ひとり旅なんて「取材」か「苦行」のつもりで出かけてちょうどいいのかもしれない。
- 行った気にならず実際に行く
- すぐに検索しない
- ときどき長い文章を書く
自分に課している習慣である。「長い文章を書く」のは、書いている間はそれなりに考えもするからだ。長く書いておき、それを短くすればさらに考えることができる。この時間をショートカットしないでおけば、じっくりひとつのことを考える習慣がつく。早い話がこのブログのことだが、ほんとうにおかげさまである。
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