東京からツアーを申し込むと、直ちにウクライナから確認の電話があった。わざわざ国債電話である。「申し込んだのはあなた?ご自身が行かれるのですね?ところで訪問の目的は?」と矢継ぎ早。とっさに思い浮かばず「安全であることを確認したいから」と答えておいた。電話が切れると前金を払い込むようにというメールが着信した。
ツアー参加者の構成はチェコ人の団体客8人、デンマーク人2人、そしてぼく、であった。運転手はまるでレスラーのような体躯だったが英語が喋れず、ユーリという男があらわれ、ガイドはチェックポイントで乗り込みます。というだけ言って、どこかへ消えてしまった。そのようにして赤いミニバスはぼくらを乗せて早朝、キエフを出発した。
のどかな田園風景、時おり馬に引かれた荷車とすれ違う。天気は快晴、車内はチェコ人がやんやと大騒ぎ。途中乗り込んできたガイドはツアーの内容を注意事項を英語を話し、参加者のひとりがチェコ語に通訳する。誓約書がまわってきて、全員がサインする。ゾーン内(立ち入り禁止区域内)にものを置いていかない、そこにあるものを持ち去らない、といった内容だ。
ガイドはマークと名乗った。
「ここに参加した東洋人は日本人だけだ」という。NPOの職員で、大学では物理化学を学び、放射線による健康被害について研究しているという。ひとりで参加していることをいいことに、ぼくはマークにつきまとい、質問攻めにした。
30km圏内の入り口には検問があり、パスポートと書類の提示が求められた。出発してから2時間、ゾーン(立ち入り禁止区域)に入ったのだ。カメラを向けると警察官からダメだと合図される。自分を撮るなということらしい。
チェルノブイリ市に入る。
事故後、強制避難させられた住民はいまも戻れないままの都市。人々が退去したとき、ここはソ連であった。建物、看板、遺棄された生活用品はすべてソ連時代のもの。だが時は止まらない。住んでいた家は朽ち果て、家畜は野生化した。草木の生命力には眼を見張るものがある。月日は留まらず、絶えずあたりを変えていく。
▲チェルノブイリ市に作られたニガヨモギの星公園。事故後25周年に建てられた。
▲「記憶の道」強制避難の対象となった村の標識がならぶ。墓を思わせるデザインだ。
マークの腰にぶら下げたガイガーカウンターは1.5マイクロシーベルトと表示。キエフ市内より低い線量だ。「これなら避難させる必要はないのでは?」とぼくが聞くと、ついておいでとマークは藪に入り、腰をかがめ地面に張り付く苔にそれをかざす。チチチッと音がして16マイクロシーベルトまで上がった。「一部はまだ線量が高いままです」とマーク。なるほど。放射性物質は舗装されたところは雨に流され風に飛ばされやすいが、それが染み込んだ土やその養分を吸う植物には留まりやすいというわけだ。
▲まるで温度でも測るかのように放射線量を測る
事故の翌年、1987年から強制避難させられた人たちがひとり、ふたりとゾーン内に戻ってきた。ピーク時には1200人が戻り、自力で生活を始める。彼らはサマショールといわれた。転移先が馴染めず、ふるさとに戻りたかったのだ。こうしたサマショール達をウクライナ政府は強制退去したり処罰をせず、合法的に居住許可を与えた。高齢者には年金が与えられるようにし、移動販売車によって生活必需品を届け、医療サービスの巡回などを行なっている。福島でもこれができないかと思う。
10km圏内のゾーンに入ってまもなく、ツアーはある建物に立ち寄る。コパチ村幼稚園だった建物。入り口に人形が捨てられてあり、おどろおどろしい。
▲幼稚園の敷地内に無造作に置かれた壊れた人形。不気味である。
「きっと誰かが持ち込んだんだろう」とマーク。ここは異常に線量が高かった。うなるようにおそいかかる藪蚊と格闘しながら真っ暗な建物内に足を踏み込む。散らばる机、鉄製の二段ベッド、剥がれ落ちたポスター、床に散らばる風化した紙類。廃墟フェチにはたまらないかもしれない。付近にあった他の建物や民家は壊されたり処分されたり埋められたりした。だのに幼稚園だけが残された。そこになにか恣意的なものを感じてしまう。いわゆる「チェルノブイリの子供たち」というやつかもしれない。
靴をはたいて車へ戻る。
少し走ったかと思うと、マークが身をかがめマイクでアナウンスする。窓の外を見れば、おなじみの横シマの煙突がニョキッとはえた建物が遠くに見えた。車内にどよめきの声が上がる。そう、大事故を起こしたチェルノブイリ第四号炉である。その前には冷却水供給のための人工湖。ぼくは意図に反し、なぜか深呼吸をひとつ。鼻腔の奥に残る緑の匂いがした。蚊にさされた腕が急に痒くなった。
チェルノブイリはウクライナ語で「ニガヨモギ」を意味する。ヨハネの黙示録には「ニガヨモギの星が落ちて水が汚染されるだろう」という記述があり、事故直後は預言が当たったのだと大騒ぎする者達がいた。
カメラを取り出し、バシャバシャとシャッターを切っていると「そっちは撮ってはダメだ。誓約書にも書いてあったろう?」とマークが制する。草を踏んだり草木に触るのもダメだという。それほど離れていないコパチ幼稚園では、草も木もなにもかも思い切り踏んだり触ったりしていたが?
巨大な冷却塔やクレーンが見える。これらは事故当時、5号基と6号基とともに建設中であった。そこに至近距離で膨大な放射性物質を浴びたものだから、解体することも運び出すこともできず、27年間野ざらし状態で今に至るというわけだ。それらを眺めながら、ぼくたち一行は原発敷地内へと入っていった。
目の前いっぱいに広がるあの四号基。
1986年4月26日、ここから全世界に膨大な放射性物質がばらまかれたのだ。空中に勢いよく舞い上がり、いったん水蒸気と混ざるとこんどは雨とともに広大な地表に降りてきた。一部がポーランドにいたぼくの頭上にも落ち、そのことでさんざんドイツで脅された。死ぬかもしれないなどと言われた。そんな気にもなった。多くの犠牲があったし、うたかたの世界は大きく変わっていく気がした。3年後、東欧革命が起こった。共産主義が崩壊し、ベルリンの壁が崩れ落ちた。1991年にはソ連もが崩壊し、ウクライナは念願の独立を果たした。その元がほんの300m先にある。
「5マイクロシーベルト」
まるで時刻を告げるようにマークが言う。
チェルノブイリ原発事故における犠牲は少なくない。火災の消火活動などの事故処理で消防隊員や軍人ら。次に4号炉の放射性物質を封じ込めるため、石棺というコンクリート遮蔽物の建設に80万人が動員された。健康被害などかまっていられない。直ちに火を消し、放射性物質が漏れないようにしなければならない。これによって2200人も亡くなった。命を賭してこれ以上被害が広がらないよう犠牲となったのだ。
そんな犠牲を払って建設された石棺の寿命は30年。一部は崩落し始めている。あくまでも応急処置だったのだ。1997年、ウクライナ政府はこれに代わる「新石棺」の建設に着手したが、思うように資金が集まらない(建設費2000億円)。そこに福島第一原発事故が発生。これが火付役となり、支援金がとたんに集まってしまった。皮肉なものだと思う。漁夫の利を得たのはフランス。新石棺はノヴァルカという国際コンソーシアムが、2015年間性を目標に、建設を担当している。区域内にはロゴの付いたヘルメットをかぶった作業員たちが行き交っていた。一日2800人もの人たちがここで働いている。ここに来るまでそんなこと、知らなかったが。
▲建設中の巨大な新石棺。建て終わってから敷設されたレールの上を滑らせ、4号基をすっぽり覆うのだ
事故原発基の内部ではまだ2000トンもの核燃料がある。溶け落ちた核燃料を取り出す技術など、まだ人類は持っていない。新石棺ができてもその寿命は100年だという。それまでに人類は新しい術を発見しているのだろうか?。これまでの100年間の技術革新を思えば、可能であると信じたい。とすれば廃炉にともなう危険もいまよりは軽減するかもしれない。稼働よりも難しい廃炉。日本は時を待たず、いまそれをやろうとしている。
「ばかな!?」とマークはいう。「廃炉は徐々にやるもんだ。一気に止めて日本は持つのか?」「ノーウエイ、日本は地震国なんだ」とぼく。マークは合点がいかない。「地震?フクシマがやられたのは津波だろう?」
当時のソ連政府が事故を起こした4号基をコンクリートで密閉したかった理由は、となりに並ぶ他の3つの原発を再稼働させたかったからだ。でないと電力供給がもたない。チェルノブイリではまずは1号基、続いて2号基が再稼働し、翌年には3号基も再稼働した。
原発施設内を離れ、一行はブリピャチへ市へと向かう。
▲1986当時のままの姿で朽ち果てていくビル。ソ連の紋章が崩壊を物語る
▲吹き抜けのホール。テーブルと椅子が並べられ市民に食事と憩いを提供していたはずだ
▲片道2車線と広い歩道を持つほどの大通りも27年放置されればこのとおり
▲文化科学館の内部。ソ連ぽいデザインの壁が虚しい
▲建物から見える観覧車。遊園地はできたばかりで事故が起こらなければ、1週間後に開園するはずだった
▲当時最新鋭の15階建てのアパート。ここの屋上に登ってみることにした
▲壊れた階段。事故後、略奪にあった様子が見受けられる。オルガンなどは持ちきれなかったのかエレベータホールに捨てられていた
▲15階まで一気に駆け上がるとさすがに息が上がる。しかしそこから見るパノラマは悲しいまでの絶景が広がっていた。まるでビルが緑に飲み込まれているようである。
▲事故を起こした原発も見える。事故が起こった時、人々はここに上がり不安そうに火の上がるこの建物を見つめていたという
▲同じツアー参加者のチェコ人。屋上に手すりはなく、足を滑らせれば一巻の終わりである
▲付近にあった屋内プール。水のないプールから水の音が聞こえた気がした
▲まるで十字架のような送電線。いまもウクライナ西の発電所からチェルノブイリを通ってウクライナ全土に電気が送られているのだ
ここはチェルノブイリ原発が建設されることを機に作られた人工都市である。11世紀から人々が住んでいたチェルノブイリ市とはそこが違う。プリピャチ市には1986年当時45,000人が暮らしており、5号基、6号基が新設されればもっと規模は大きくなるはずだった。事故後、住民が避難させられてからいまは誰も住んでいない。郷愁にかられて戻るものもいない。だが4万人以上の都市が遺棄されればどうなるのか、ここではそれを学ぶことができる。
チェルノブイリ市の指定食堂で遅いランチを取りながら、ぼくはマークと同じ席につき、話を伺った。
▲前菜。きゅうりとハム。味は塩だけ。歩き疲れてお腹ペコペコ。空腹にまずいものなし。潔癖症なら被曝を恐れて食べないかもしれない。
▲メインディッシュの牛肉の煮込み。ぼくは平らげてしまったが、参加者の中には食べない人も多かった。
ウクライナやロシアでは当時、事故処理に携わった多くの作業員がいたんだ。作業は何年にもわたり、ゾーン内の放射線量はいまの1000倍もあった。数百マイクロシーベルトだ。だれもが放射能による被曝が自分の健康にどう影響するか知りたがり、高じて専門知識を学ぶものも多かった。広島や長崎がどうだったかを学ぶため、多くの学者が日本から招聘された。メディアや人々の噂はポジティブなものよりネガティブなほうが広がりやすい、放射能事故はとくにその傾向が強いよね。別の目的のために原発事故を利用するものも多かった。新聞だって売れるしね。ソ連が崩壊してからはとくに多かった。「こんな話、退屈じゃないか?」マークは話をとめてぼくに訊く。構わない続けてくれ。とぼくは合図する。自分の父親も作業員のひとりだった。その影響もあってこの仕事をしている。
マークは続けていう。
チェルノブイリと距離があればあるほど心穏やかでない人達が多いんだ。親父は当事者だったけど落ち着いていた。被曝量もきちんと測っていたし精神的に傷つかないように努力していた。心無い人も多かったからね。作業員は、とくに低線量被曝の健康被害を重要視する人たちから敵視されていたのだ。かつての広島や、いまの福島がそうであるように。
▲線量を測る装置。食事を剃る前やチェックポイントに設置され、計測させられた。
「ねえ、マーク」とぼくは口を挟む。ぼくの父親は広島で被曝したんだ。母親もね。だから自分が被曝したことを互いに内緒にしていた。でないと結婚してもらえないと思ったんだろう。やがて母親はぼくを身ごもった。きっと心穏やかじゃなかったと思う。奇形児が生まれるかもしれなかったからね。
「そんなのクソだ!」とマークがいう。
そんな中、ぼくは生まれた。1963年のことだった。若く見えるね、とマークがいう。「ありがとう」とぼく。奇形児だからかもしれないね。そういうとマークは笑い、ぼくも笑った。
食事は美味しくなかったが、平らげた。
世に縁というものがあるのなら、たぶんマークとの出会いもそうなのだろう。ぼくらを引き寄せたのは、互いの父親だったのかもしれないが。
一行は途中何度か検閲を受け、来た道を戻ってキエフ市内についた。検閲は放射線量云々と言うよりは、ゾーン内からなにか持ち出していないかを調べているだけのように見えた。車を降りながらバイバイと言ってぼくらは別れる。チェコ人たちは相変わらず陽気で騒がしく、デンマーク人の女の子は互いにポーズを取りカメラを向け合うことに忙しい。それぞれが思い思いに過ごしたのだ。
▲キエフ市内にあるチェルノブイリ博物館。入口付近には福島からの展示物も飾られ、日本語のモニュメントもあった。
チェルノブイリで福島を想う。
答えはまだない。
いまなお立ち入り区域を解かないウクライナ政府。専門家の中には「避難は一時的にすべきだった」と悔いる人たちもいます。27年も経てば生まれた場所に郷愁を感じる人も少なくなる。いま、無理をしてゾーン内に戻る人たちは減ってきています。福島についてはできるだけ早く避難している人を戻す施策を講じなければと思います。未来がないと避難先で自殺された方や、野菜が売れないと自殺された福島の農家は、いったい誰に殺されてしまったのか?福島をチェルノブイリのようにしてはいけない。そう強く思ったこの旅のツアーでした。亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
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