1575年、長篠の戦い
この戦いで、織田信長は鉄砲隊1万人のうち3000人を率いて、武田勝頼の騎馬隊を殲滅させた。鉄砲は最先端兵器であるけれど、弱者の武器ともいわれた。剣術や馬術の練度が低い兵士でも取り扱えるからだ。鉄砲を使えば、力の弱い兵士でも屈強な相手を倒すことができる。レバレッジの効く兵器なのだ。軍事革命たるゆえんである。
遡ること1543年、たまたま種子島漂着したポルトガル船に鉄砲が積んであった。いわゆる鉄砲の伝来だが、以来、たった数年で日本人は見よう見まねで鉄砲を国産化した。日本のあちこちに鉄砲鍛冶屋が登場し、やがて大量生産されるようになった。世界の最先端技術を独学で学び、改良し、自分たちのものにする。器用さと匠の技、イノベーション。今に続く古来からの日本の伝統である。
同じころ、世界を見渡してもこれほど大規模な鉄砲部隊を持つ国はなかった。1587年フランス、クートラの戦いでアンリ4世が率いた鉄砲隊は約300。銃火器を使った戦闘では最大規模と記録にあるが、日本ではその10倍の規模で12年前に経験済みだったというわけだ。しかも鉄砲を積極的に軍隊に取り入れたのは信長だけではない。たとえば1570年の一向一揆の拠点、石山本願寺攻防戦では数千丁の鉄砲が使われた。これを調達した堺商人、おそるべしである。
▲ 長篠の戦いでは鉄砲隊3000を3つに分け、1000発ずつの一斉射撃を交代で行った。走り迫る騎馬を撃つには点火から発射までの時間がネックとなったためだ。
おそらく当時の日本は、ヨーロッパ列強のどの国にも勝る軍事大国だったのではないか。実際のところ、豊臣秀吉のバテレン追放令にイエズス会の宣教師が怒り、本国スペインに日本攻撃の軍隊を要請するも、「無理」と却下された。16世紀当時、南米や東南アジアで猛威をふるい、世界最強の無敵艦隊を保有するスペインをしても日本攻略は出来なかったのである。
日本がすごかったのは実はそこではない。
すごかったのは、自ら武器を捨てたことである。天下分け目の決戦、関ヶ原で勝敗がつけば、過剰な武器はもういらないとばかり、さっさと鉄砲の製造を禁止し、大型船の建造をやめ、刀の使用を諌めた。ふつう、文明の利器は捨てがたい。当時の銃は、いまのミサイルに匹敵する最強の兵器である。いったん手にした銃をなかなか手放せないのは、いまの米国を見ても明らかだ。核ミサイルを手放せない各国の事情を見てもそうだ。17世紀に入ったとたん、だが日本はこれをやった。文明の利器を捨てた民族は他にもいるが、日本ほど大規模にやった民族はめずらしい。
なぜ日本にそれができたのか、ふと考えてみる。理由は武士道ではなかったか、と。武器を手にできるのは高貴な規範を持つ者だけに限定し、町民や農民などの一般民衆に持たせないようにした。農民が銃で武士を背中から撃つ世の中では、武士道もへったくれもないと考えたのだろう。武士道もへったくれもないような日本では、秩序を保つことは難しい。
外国からの脅威がなければ、多くの日本人はさしたる理由もなく武器をこしらえ、他者を殺めることをよしとしなかった。要らない武器など惜しみなく捨て去る民族なのだ。
だが、一度外国から脅威があれば、屈することなく再び武器を手にし戦うことを恐れない。というのもまた日本人のしてきたことである。
それを責めるひともいるが、
責めるほうがおかしいだろう。
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