ところで「ハンカチ王子」はいまどうしているんだろう?というか、彼をキャーキャーと追い回していたおばさんたちはどうしたんだろう?いやなにもおばさんたちばかりではなかったけれど、なんとなく「そこに行列があるから並んでみました」的な流行り廃りの中で、はたして自分がなにを忘れているのかすら忘れてしまっている大衆は、いつの世にも健在である。まあぼくも含めてだけど。
いつのまにか誰かと飲んでいても「男女の何とか」みたいな話題がまず出てこなくなった。ぼく自身興味を失せてしまったからなのか、周囲にいるひとたちがそうなのか、あるいは齢のせいなのか、時代のせいなのか自分でもよくわからない。50を前にすると、人間は持っているものを少しずつ少しずつ捨てなくてはならないのかもしれない。体力だって衰える。「恋」という響きがどこか淡く、遠くに霞んで見える。非現実的にすら思える。あれはもう語り尽くした物語なのだ。絞り切ったトゥースペーストなのだ。それにしてもなぜこんなに女性に興味がなくなってしまったのか?
たぶんそれは満員電車のせいなのだ、と思ってみる。そこはまさに戦場だ。疑われてしまえばなんの言い訳も聞いてもらえない冤罪の世界である。いうまでもない、痴漢のことだ。される方も災難なら、疑われる方も災難である。してなくても疑われるだけで逮捕され罪を認めなければ日常に戻れない。抵抗し続ければ牢屋から出してもらえず、くり返される裁判から逃れられない。認めればもちろん前科一般だ。社会的に抹殺されることもある。だから決して疑われないよう、両手は常に上げておかねばならない。乗れば周囲に女性がいないか確かめ、極めて女性を避け、男たちの立つ場所へ向かう。そこは決して居心地の良いものではないが、身に覚えのない痴漢の疑いから遠ざけることができる。朝晩そんな習慣が身につけば、知らず女性恐怖症というものになってしまうものだ。とくに朝のラッシュ時には、車両は銭湯のように男と女を分けてもらいたいと、冗談でなく思う。女性専用車両があるなら男性専用車両があってもいいじゃないか。ちょっと臭そうだけど。
あるいは職場のせいもあるかもしれない。
いまの社内は女性従業員が多い。そしてコンプライアンス何とかというルールも多い。他者に迷惑がかからないよう一挙一動、緊張のしっぱなしである。いつの間にこんなにルールができちゃったんだ日本の会社って!と驚いたのは数年前。それが次第に慣れてしまっている。そんなルールに慣れるにしたがい、自分のなかの何かが失わつつあるのかもしれない。なにを忘れてしまっているのかを忘れてしまっているから、なにが失われたのかを気づくのはまだずっと先のことなのだろう。
息苦しくなってはじめて今まで息を止めていたことを思い出し、息つぎをするかのように日本を出る。しだいに長く息を止めていられるようになったのは進化なのか退化なのか老化なのかはしらないが、いまのところ年6回程度出れば大丈夫な身体になりつつある。そのうち4回になり、やがて2回になるかもしれない。
とあえてひねくれてみる。
これもひとつのストレッチ体操である。
それどころか小さく丸まっているだけだけど。
最近のコメント