「長い春」と書いて長春。
中国吉林省にある358万人の省都。かの満州帝国の首都「新京」であったことでも知られる。だけど、そこで30万人以上もの餓死者をだした悲劇については意外に知られない。
新京時代は日本人20万もそこで暮らしていた。ラジエーターによる暖房設備や水洗トイレ完備など、当時の東京より先進的だった都市は、終戦前のどさくさにソ連が攻め入り、略奪と強姦、殺人などの悲劇で幕が上がる。命からがら引きあげた日本人居留民。その後にやってきた中国国民党軍の兵士たち。まもなく中国全土を二分する国共内戦が始まる。いや再開する。内戦は対日戦争中の間だけ休戦していたにすぎなかったのだ。長春のまわりでも戦闘が始まり、共産党軍が一時支配した。だがそれもつかの間、国民党軍の反撃にあい、再び国民党軍が支配することに。民衆はそのたびにうろたえ、食料や物資を徴収され、忠誠を誓わせられた。
▲ 1943年ごろの長春(当時は新京)
1948年7月。
長春市内には占拠する国民党軍の将兵20万人と、無辜の民50万がいた。そこを毛沢東の共産党軍が包囲。兵糧攻めを敢行した。市内をぐるりと鉄条網と兵士で囲み、外部と遮断するため鉄道や道路も破壊した。食料や物資を持ち込もうとするものは捕えられ、その場で銃殺。食料を空中輸送しようとする航空機は落とされた。
2ヶ月もすると蓄えていた食料も底をつき、市民は飢えはじめる。白米を粥に、粥を重湯に薄めて命をつないできたが、やがてそれもなくなった。籠城している国民党軍は、自分たちの保管食料を市民に分けたりしない。はじめこそ金塊ひとつで小麦粉一袋、娘を差し出し米5kgと交換していたが、それすらも節約し始めた。犬、猫、ねずみが食べられた。草や木の葉もなくなった。樹皮も剥がされ食べられた。そして、人肉までも。
人肉市場が立ち、肉が並べられる。初めは死んだ人間、次第に生きた者へ。子供はとくに狙われた。人びとはさすがに自分の子を食べるのは忍びないと、他人の子供と交換して食べあう。そんな人民を尻目にそれでも国民党軍は降伏せず、餓死体は増え続けた。これが地獄でなけりゃなにが地獄だと思う。
さらなる地獄はちゃんとあった。
チャーズ(上下子)と呼ばれる緩衝地帯がそれだ。
市外とのあいだには国民党軍が囲った鉄条網があり、鉄門で区切られ「一度出たものは戻れない」という張り紙。飢えた市民は「市内よりはマシだろう」とわずかな期待を持ってそこをくぐるが、その先には共産党軍が作った別の鉄条網があった。門は固く閉ざされ、無理に出ようとする者たちを共産党軍が「戻れ」と銃撃する。進めず、だが戻れず、干物のような身体をして難民たちは途方にくれる。そこへ先にいた難民たちに襲われ、わずかな食料や着物すら奪われる。兵士の略奪もあった。足の踏み場もないほどの死体の山。半埋め状態の死体もあれば、ただころがる死体もある。難民は死体をどかし、布団(もしあれば)を敷いて野宿をするが、布団のすぐ下、土の中にも死体が横たわる。廃家の土壁を食べる者、死体の骨をしゃぶる者。人ではない人がうろつき、枯れ枝のような腕で開かない門をたたく。言葉を失う。本物の地獄だってもっとましかもしれない。チャーズには日本人も少なからずいた。
国民党軍将兵の食料も尽き降伏したのは4ヵ月後の10月。
50万人いた市民は17万人にまで減っていた。
脱出できたわずかな人たちを除けば、30万人以上が餓死という。いや、銃弾や刃物を使わないだけの大虐殺だ。これが中国史のタブーと言われる「長春餓鬼地獄」である。
チャーズで門番をしていたのは共産党朝鮮人部隊。戦後、部隊を率いていた部隊長は粛清された。毛沢東は自分が命じておきながら「あれは林彪((林彪(りんぴょう)と朝鮮人部隊が勝手にやったのだ」と、うやむやにしている。
ぼくは長春であったこのことを2005年、『マオ 上下巻(ユン・チアン著)』で知り、関心を持ち、関連本を読みあさった。実際に長春から生還した日本人による手記『チャーズ(遠藤誉著)』もそのひとつ。
あった史実をなかったといい、なかった史実をあったという中国。かの将兵たちはなにを信じ、なにを守るために戦ったのだろう? 戦闘が終り、残ったのは肉付きの良い両軍兵士と、なんとか生きている枯れ枝か干し魚のような市民17万人。そして30万人もの餓死体。そこに冷厳な現実が横たわる。
主要都市を占領して堡塁を固める国民党軍、その周りをぐるりと囲み兵糧攻めにする共産党軍の戦い方は、国共内戦中、いたるところで見られた。つまり飢餓地獄は長春だけではなかったのだ。
▲ 1949年中華人民共和国建国。宣誓式パレードには共産党軍に摂取された旧日本陸軍の97式中戦車も参列していた
戦後まもなくのこと。米国は中国(当時は中華民国)と組むか、日本と組むべきか意見がわかれたという。だがジャーナリストの取材を通じて中国軍の想像を絶する残虐行為を俯瞰し、日本を選択した。
米国の選択が違っていれば、
今ごろ日本は中国の一部だったかもしれない。
だとしたら、ゾッとする話である。
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