毎年5000人も人が亡くなる湖がある。
ウガンダにあるビクトリア湖だ。亡くなるのは漁民で、ほとんどが水難事故である。世界第二位の広さがあり、漁業や湖岸事業は国民の数百万もの胃袋を支えもするが、同時に世界で最も危険な水面でもある。原因は水温の高さからくる嵐の発生と、それを予知し危険を漁民に知らせるシステムがないからだという。
などと日本から遠いビクトリア湖には関心があっても、国内の先生の体罰問題にはどうも関心がもてない。自殺者だって出たのに、薄情じゃないか。というそしりを免れないだろう。だがなんとも気持ちの悪さが感じられてしかたがないのだ。
自殺の原因を先生の体罰によるものと決めつけ、「すべては体罰が悪い」という風潮がまず不気味である。ほんとうにそうだったのか? 「体罰すなわち暴力」という、短絡さも乱暴である。自殺に追い込まれるのは肉体よりも精神的な苦痛かもしれない。言葉の暴力は決して無視できないのだ。適度な体罰は、躾や鍛錬に必要なものだとぼくは経験を通じて思う。未熟な人間を正し、あるべき姿に育てるには、ある程度の不快感は手段として適切だ。人間は耳や目で学習するが、身体からも学習する。本来人間は未完成な生き物で、幼い時や能力が未発達なときなんかはとくにそうだ。
学級崩壊が話題になり、生徒の個性を尊重するなどと「ゆとり教育」に移行したのは20年前だったか。あのころからだったろうか。先生が生徒に手を挙げれば「教育委員会に訴えてやる」だの「マスコミに流してやる」といった親御さんが出てくるなど、モンスター・ペアレントが出現しだした。モンスターたちはそもそも学校や病院は顧客サービスをするところなんだから、生徒や患者は大事なお客さまとして扱えと。「お客様は神様」の精神をそこに求めたのだ。子供たちはそんな親を見てどう育っていったか?
いまの日本は20年前よりひどくなったかもしれない。
いまじゃ「体罰狩り」という言葉すら生まれている。先生による体罰を発見し、報告すれば褒められるのだ。取っ組み合いの喧嘩をしていた生徒たちを引き離そうとした先生に対し「先生に首をしめられた」と報告する生徒。気の毒な先生は調査が終わるまで謹慎処分だ。この傾向は、ますますエスカレートする。本末転倒である。「褒められたければ、叱られるようなことをすればいい」と子供に教えているようなものだ。
自殺の報道をすれば自殺者がさらに増える、という統計を元にヨーロッパで自殺のニュースが禁じられたのは20世紀のこと。「体罰」もまたそうではないか。なので、この手のニュースに関心が持てない。かまわないほうがいいとすら思う。なんて言いつつ、記事にしちゃったけど。
ビクトリア湖の高波は、湖といえども嵐の海と変わらない。
雷雨をともない、小型の漁船などを次々に転覆させる。投げ出された人間は湖底に沈み、数日後、亡骸で湖岸に流れつく。流れつかないこともある。「気象状況の最新情報があるかないかが、私たちの命運を決めるのです」とはウガンダの漁業関係者のコメントだ。
情報には、知るべきものと
そうじゃないものがある。
桜宮高校の一件については、調べれば調べるほど学校の特異性が際立っているようにも思えました。つまりあまり普遍的な事例でないと。それに生徒の自殺は、原因がともあれ痛ましいです。ぼくも高校時代に、自殺未遂を試み(失敗し、病院意識を戻した)たこともあり、共感もできます。もうひとつ超えれば何とかなったのに、と思うほどに虚しい。ご冥福をお祈りします。
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