2012年10月、対馬から仏像2点が盗まれた。
これを盗み持ち帰った韓国人男は、売ろうとしたところを警察に捕まる。日韓をまたにかけた窃盗団のひとりだという。盗まれた仏像も確保された。さっそく日本へ返還されると思いきや、「不当に日本側が入手した可能性もある」と、待ったがかかる。それどころか、過去に日本が略奪した6万6千点の文化財を返せとまで主張する国会議員などもいて、埒があかない。このままでは日本から重要文化財を盗んでは「元は韓国のものだから返さない」などと言い出しかねない。
相変わらずめんどくさい人たちだ。返す言葉もなく、相手にもしたくない。すると「罪悪感があるから反論できないのだ」と、さらに要求してくる人たちでもある。
日本は我が国からものを奪ってばかりいる
泥棒に言われたくはないが、そのようにして彼らは「悪しきはすべて日本のせい」で済まそうとする。愛国(=反日)教育のたまものだ。あろうことか日本の政治家やマスコミ、大学教授などもこれを支持。日本の教育会もこれに合わせて教科書を編集する。こうした教育を受けつつぼくが育った広島は日教組の影響が強い。原爆による反核は反戦と同義語だから左翼と愛称がいいのだ。
GHQは日本占領中、新聞メディアに対し「新聞と言論に関する新措置(コード)」を発令し、連合国にとって都合の悪い記事を禁じた。「朝鮮人に対する批判」「中国に対する批判」もコードで禁じた。公平中立なメディアの姿勢を蝕むコード。GHQが去ればこんなもの破り捨てればいい。はずだったが、いまも温存されたままである。マッカーサーが部下に命じ、たった6日間でこしらえた日本国憲法も似たようなものだが。
ぼくにも韓国人の友人がいる。
出張で先日、日本にも来た。
「直民地だった国で生まれた国民は、宿命的に宗主国を恨むものと思っていた」と彼はいう。英国に対する香港人、フランスに対するベトナム人、米国に対するフィリピン人、同じ日本が宗主国だった台湾人や、かつて満州と呼ばれた東北三省に住む朝鮮族。だけどその予想は外れ、意外にもいい印象をあわせもっていることに気づく。遼寧省に住む朝鮮族の人などは、なつかしそうに当時の日本の唄を歌う。なにか違う事情があるのかもしれない。日本人は朝鮮半島の同胞だけにひどいことをしたのかも?と彼は思った。
だが史実は反対だ。
むしろ植民地支配の恩恵をたっぷり享受できたのが朝鮮半島だ。それまで数千年間にわたりのべ1000回以上も支那から侵略をうけ、李氏朝鮮時代500年間は支那のほぼ属国であった。これを断ち切るきっかけとなったのが日清戦争、朝鮮の独立はこれで果たせたはずだった。ところが事大主義(強い方になびく)な韓国人はロシアに媚び、親露侮日な態度。おかげでロシアに隙をつかれ、危うく領土を奪われそうになる。そこへ日露戦争勃発。日本の勝ちが決まると態度を豹変、こんどは「一進会」を通じ、日本と合邦を希望する電報を打つ始末。
対して日本政府は慎重だった。
韓国と二カ国合意だけですまさず、国際社会(米国、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、ベルギー、清國、デンマーク、フランス、英国、ロシア)に承認される形で1910年、日本は「韓国併合宣言」を行う。あたかも軍事行動で略奪されたかのように言われる筋合いはない。
当時の朝鮮半島はもう本当になにもなかった。道路らしい道路もなく、病院も、学校も、工場も、灌漑農業も整備されていない。両班(ヤンバン)と呼ばれる官僚がのさばる政治は機能しておらず、裁判制度やまっとうな警察もない。山に木はなく、禿山だらけ。これは焼畑農業と朱子学に基づく墓場の建て方によるものだ。よって水害が多く、飢餓が蔓延。ソウルは上下水道なく、糞尿の匂いに鼻が曲がったと当時訪れた外国人が手記を残している。
それを韓国・北朝鮮では、日本人がやってきて我が国の山々を禿げ山にし、ハングルを奪い、文化財を奪い、朝鮮名を奪い、女を誘拐し売春婦にしたと国民に教える。子はやがて親となり、同じように子に伝える。さらに尾ひれをつけて。異を唱える者は口を封じられた。戦後の日本も同じ。「韓国にはいいこともした」と発言しただけで法務大臣が更迭された。まるでおとぎの国のようである。
植民地当時(1910〜1945年)に撮影された写真がある。論より証拠。百聞は一見に如かずである。
■ 朝鮮から日本に届けられた合邦希望の電報
1909年12月に「朝鮮問題同志連合社」という団体を通じて日本側に届けられた電報。清に勝ち、ロシアにも勝った日本と合邦することで生き残ろうとする当時の朝鮮半島の意志の集合。各階級、一般人民公平に集めたと記録にある。【『日本之朝鮮』有楽社1911年発行】■ 朝鮮総督府の建物
台湾では台湾総督府があったように、朝鮮半島の日本統治は総督府を通じて行われた。戦後しばらく国立博物館として使用されていたが、1993年に「悪しき歴史産物」として取り壊された。日本の国会議事堂より豪華な印象である。【『朝鮮事情』1940年発行】■ 京城(ソウル)駅
竣工は東京駅と同じ1925年、1894年から1945年にかけて日本は朝鮮半島全土に5000kmもの鉄道を網の目のように敷いた。ちなみにソウルと北京は鉄道で結ばれ、特急が往来していた。その意味では、今より平和な時代だったのだ。【『日本地理風俗大系・朝鮮地方』新光社1930年発行】■ 特急『ひかり』と『のぞみ』
新幹線が登場するはるか昔に、ひかりとのぞみは豪華特急として、なんと朝鮮を走っていたのだ。満州鉄道のあじあ号と同様、内地の日本人も憧れる列車であった。乗客の80%は韓国・朝鮮人だったと記録にある。【『半島の近影』朝鮮総督府鉄道局1937年発行】■ ハングルを教える小学校
「日本人はハングルを禁じた」などと言われるが、実際には李王朝朝鮮時代にハングルは「下級文字」として軽蔑され、一部の婦女子しか使われていなかったのを、日本人が「文化復興」としてハングルを再び普及させた。けれどもハングルだけでは語彙が足らないので漢字を併記した。【『生活状態調査』朝鮮総督府1921年調査】■ 生徒の作品集
子どもたちは、好きな文字を使って習字をしていたようだ。少なくてもこれだけで「ハングル禁止」がでっち上げであることがわかる。【『漢洞公立普通学校創立30周年記念集』より】■ 京城帝国大学(現:医学博物館)
ただ奪うだけの植民地なら欧米諸国がそうしたように愚民化政策をとる。ところが日本は学校を何千も建て、大学まで創立していた。大阪帝国大学、名古屋帝国大学よりも十数年早く、京城帝国大学は開校された。それにしても瀟洒な建物である。【『京城帝国大学一覧』1936年発行】■ 漢江大鉄橋
1900年、京城と仁川に架けられた大鉄橋。当時東洋一の規模を誇ったといわれる。橋桁を中心に橋架部分が回転し、大きな船が通れるようになっていた。当時の人々は度肝を抜かれたが、いま見てもすごい。【『日本地理風俗大系・朝鮮地方』新光社1930年発行】■ 植林のようす
「五千余萬円を投じ十五年がかりで鮮内の禿山を退治」という見出しで当時の新聞があるが、日本統治前は朝鮮半島の山々はほとんど木が生えていなかった。これは「火田民」という焼畑農家や朝鮮式の墓の伝統などの悪影響もある。それを総督府は全土に渡り「緑化運動」として、せっせと植林を遂行していった。そんな日本人の性質は、今なお瑞々しい日本列島を見れば納得である。【『平壌府』1932年朝鮮総督府発行】■ 「創氏改名」手続きに殺到する民衆
希望者には日本名を与えられるとし、受付をはじめたところ(期間:1940年2月11日〜8月10日)人々が殺到し、およそ80%の朝鮮人が日本名に変えた。当時の朝鮮人の4割は賤民と呼ばれる「苗字」のない人々。まずこの人達が苗字ほしさに日本名に変えた。加えて朝鮮名だと中国人から侮蔑されるため、日本人名を名乗リたがる人々もいた。ちなみに台湾でも同じ創氏改名を募集したところ、たった1.6%しか改名しなかったという。【『朝鮮事情』1941年朝鮮総督府より】■ 近代農法の教育と実習
万年餓死者をだしていた朝鮮半島。日本は近代農法を教え耕地面積を増やした。おかげで1910年から30年かけて約2倍も増やし、一坪当たりの生産量も増えた。焼畑農家の「火田民」に燃やされてはと、彼らには農地を払い下げもした。おかげで総人口も同時期、1331万人から2470万人に増えたと記録にある。同じころ、朝鮮半島に住む内地人(日本人)は約3%の71万人。
上の写真が李王朝朝鮮時代の裁判(1910年)、被告は地面に座らされまるで日本の江戸時代以前の光景である。下は同じく1910年のものだが、日本からの裁判制度に則った裁判のようす。被告はちゃんとイスに座っている。近代国家に近代的な制度は欠かせない。日本はどれも手を抜かなかった。【『日本之朝鮮』1911年有楽社発行】■ 豊かな生活
朝鮮ホテルのサンテラスのようす。人々もモダンで同時期の銀座かそれ以上だ。朝鮮で初めてアイスクリームが食べれる場所としても名を馳せた。ウエスティンホテルとして、いまもある。
近代国家にレクリエーション施設は欠かせない。海水浴場にキャンプ場、登山設備、そして写真の三防スキー場。統治時代にはさまざまな施設が作られ、人々はそこで休日を楽しんだ。【『半島の近影』朝鮮総督府1937年発行】■ 電力インフラ、三宝ダム
統治時代は重化学工業が発展したが、そのためには電力が必要だ。写真は三宝ダム。70万キロワットを発電する当時、東洋一のダムだった。日本の黒部ダムはその半分の33万キロワット。発電機は戦後のどさくさにソ連が持ち帰ってしまったが、残りの発電機を使って、いまも北朝鮮の重要な電力インフラである。
日本政府がこれらを朝鮮半島に投じた予算はのべ14兆円。
ほとんどが当時の日本人の血税でまかなった。戦後、これらの施設、設備、インフラはすべて摂取された。半島から引き上げてきた日本人は、建てた家も個人資産もすべて取り上げられた。そのうえ石持て追われ、女子は陵辱を受け、殴り殺された男たちもいる。日本は韓国・北朝鮮と交戦していたわけではない。むしろ共に戦った。韓国人の日本軍将兵は佐官クラスもいたのだ。置き土産としてはとんでもなく豪華である。だが日本人は我慢した。戦争で負けたのがいけなかったのだと。韓国はこれらの借款を返還するどころか、さらに賠償金を1900億円(当時のレートで)要求し、やはり日本はこれを払う。ちなみにこの金額は当時の韓国の国家予算の実に2.3倍。いくらなんでも取り過ぎである。「これ以上賠償金を払わずとも良い」とゴリ押しされた日韓基本条約に則ったのだ。
いまでも韓国人たちは、世界中のメディアを使って、日本からは謝罪も賠償もないと抗議する。なにが真実でなにが虚構か、ぼくたちはいまいちど、リテラシーを持ってあたりたい。日本のマスコミや教科書もあてにならないからだ。爪に火をともすような生活を強いられながら、朝鮮半島の、満州の、台湾の近代化のために血と汗と税金を払ってきた先人たちの労苦を仇にしてはならないと、つくづく思う。「すべては戦争が悪い」と片付けるには、あまりに殺生である。
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