「源氏物語」は読みにくい。
なにしろ主語というものがないからだ。おかげでセリフや動作の主体が誰であるのかを、文脈やら、話の前後関係やら何やらで、都度、類推しながら読み進めなくちゃいけない。読み進んでいくうちに、なんだかパズルを解いているような気がしてくる。世界最古のパズルだ。
主語を省略するのは源氏物語だけじゃない。あらゆる古文がそうである。おそらくは平安時代、主語を明示するのはタブーだったのだろう。私が、彼が、牛が、月が、などと主語を直接書くのは、品がなく、脳がないものと見られていたに違いない。短歌や俳句がそうであるように、主語は極力排除され、省略だらけの文脈から関係を把握し、想像力を駆使しながら書き手の意図を読み取る能力こそが、小説を読まんとする人間に求められた。いまよりはずっと敷居が高かったのだ。
思えば日本語全体がそうである。
今も日本語で書かれた文章には主語が少なく、ある程度文脈から主語を察しなくちゃならない。日本人は自然と語感、敬語、擬声語などから、関係を把握し、明示されていない余白を埋めている。意識無意識にかかわらず。
日本語を勉強する外国人の話し方が不自然なのは、やたらと主語をつけてしまうからだ。そんな彼らに「私は」の部分をとって話してごらん、とぼくはアドバイスする。逆に英文を日本語に訳すときは、主語は直訳しないかあえて無視して、受動態でまとめると自然な文章になる。
空気を読め!
などと同調圧力がまかり通る社会も、思えば「主語なし」をよしとする古(いにしえ)からの美徳からきているのかもしれない。相手を察する。場を察する。疲れるが、ゆえに日本人は世界でもめずらしく繊細な民族のままであるのだろう。
それがいい面でもあり、悪い面でもある。
あいかわらず「源氏物語」は読みにくい。
ちなみにイラ写で使う自分の人称代名詞に「ぼく」を使っています。普段の会話でも「ぼく」を使っています。だからリアルなおきんを知る人も違和感ないはず。漢字で「僕」と書かないのは、硬いし、なんだか左翼っぽい感じがするから。同じ理由で「我々」というのも苦手です。「ぼくたち」のほうが利害関係がないような気がします。まあどうでもいいといえばそれまでだけど、人称代名詞にはわりとこだわりがち。主語の扱いはいろんな意味でこだわるのが日本人なのかもしませんね。
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