昨年夏のミャンマーへの旅では、その寺院の派手さに驚かされた。12世紀の古い寺院、仏教にヒンドゥー教、それぞれ今も現役で多くの参拝者が訪れる。
派手さ以上におどろいたのは、訪れる参拝者の熱心さである。祈る姿は誰もがけなげで美しい。だが普通の人が朝も早くからこんなに長い時間、祈ってばかりで他の用事はいいのだろうかと余計な心配をしてしまう。供えるための花を買い、仏像に貼り付ける金箔を買う。お布施もバカにならないのだろう。ミャンマーの地方都市は民家はボロ屋で寺院ばかりがピカピカだ。
今年、初詣には行っていない。
10代の終わりにはふざけて大晦日に行ったりもしたが、それを別にすれば生涯で初詣に行ったのは10回くらいしかない。「行ってないんですか!?」と意外にも20代の人たちに呆れられる。「みんなは行くの?」と聞けば、まるで浮いた魚を見るような目で「あたりまえじゃないですか」と言われた。
ヤンゴン市内では修行僧と知り合いになった。
神妙にお祈りの仕方を教えてもらい、お礼にとコーヒーを奢った。「あなたの両親のためにお祈りしますから」とチップを要求され、いささか鼻白んでしまったのだけど。
▲ 修行僧にコーヒーを奢ったカフェ(ヤンゴン)
この僧もどき(実際に修行僧だったのだが)に、いったいぜんたいこの人たちは何を熱心に祈っているのだ?と聞けば「自分の願いを叶えるためです」と手のひらをこちらに見せる。なるほど世界平和ではないらしい。「先祖や家族のためじゃないの?」と聞けば「心配いりません」と修行僧。「子供も家族もそれぞれ、自分のために祈りますから」と。
想像していたのと違う。
バガンの寺院でも案内してくれたガイドに同じ質問をしてみたが、やっぱり似たような答えであった。「それがなにか?」と返された。なんでもないが、なんでもある。
▲ 教えられた通り祈りの儀式をするなおきん(ヤンゴン)
ある日オカンが家を出ていきそのまま戻らなかったので、小学生のころはしばらく祖母に育てられた。生涯で10回の初詣の3回ぶんは、たぶん祖母とお参りしたと思う。
賽銭箱にコインを投げ入れ、声を出してお願いをするぼくに、たしなめるように祖母が言う。「お願いするんじゃないの。誓うんよ。いい子にしてますからみててくださいって」
小さい手を合わせ直し、あの日、鼻垂れ小僧はいわれたとおりにした。
大地に太陽が沈み、きょうも世界のどこかで祈りは絶え間なく繰り返される。願いは思い継がれていく。何億人もの人びとに何千年ものあいだ好き勝手にお願いされて、神様も仏様もいいかげんうんざりだろうけど、慈悲深く耳を傾けてくださっている。あるいはお布施しだいなのかもしれないが。
マヤ暦の予言はみごと外れ、くそったれの世界は変わらず、食べたり飲んだり争ったり。そんな折、やっぱりぼくは初詣に行き損じるに違いない。だが祈りや願いは誰か人のためにとっておき、自分のために誓いをたてる。誓う相手はキリストでも釈迦でもマホメットでも枯れたポインセチアでもなんでもいい。
フトドキ者である。
バチ当たりのそしりは免れないが、
2013年の誓いは決まっている。
もうすぐ祖母の命日。
生きていれば113歳になる。
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