まだ日本人の海外渡航者が年間400万人しかいなかったころ、初めてぼくはロンドンへ飛んだ。そのころ、口酸っぱくいわれていたのは「外国人と宗教と政治の話はするな」というものだった。
そのつもりでいたのに、相手は意外とずけずけと信仰している宗教は?などと訊いてくる。入国カードに「宗教欄」がある国も多い。話が違うじゃないか、と思いつつとりあえず「仏教です」と答えておく。「無宗教です」と答えると、いろいろとめんどうだから。ちなみにぼくが通っていた幼稚園はカソリックで、中学は仏教校である。だが幼稚園のことはだまっておいた。話せばこれはこれでややこしい。「なぜ改宗したのか?」と根掘り葉掘り訊かれることになる。
中学のころは強制寮で、朝晩かかさず20分ずつ勤行(ごんぎょう)の時間があった。苦痛だったが仕方がない。サボろうにも逃げる場所がないし、罰則も厳しかった。
日本人はよく「おかげさま」と口にする。
これは浄土真宗でいう『他力本願』の教えだ。ぼくは本能的にこの言葉が好きなのだけれど、外国人にそのニュアンスを伝えるのはなかなかしんどいものがある 。”fortunately(=幸運なことに)”ともちがうし、”thanks to you(=あなたのおかげで)”でもない。ぴったりくる言葉がないのだ。
その朝晩の勤行では「雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)」というお経を唱えることもあった。知っている人もいると思うけど「無財の七施」はこのお経の中にあり、それぞれ意味がある。
【無財の七施】
- 眼施(=優しいまなざしで人に接する)
- 和顔施(=笑顔で人に接する)
- 言辞施(=優しい言葉で接する)
- 心施(=優しい心で接する)
- 身施(=身を使って無料奉仕する)
- 床座施(=席や場所を譲る)
- 房舎施(=自分の家を提供する)
どれも「相手へのいたわり」を示すものである。
できているかどうかは別にして、ほとんどの日本人がすでにやってるし、そうありたいと思っているんじゃないだろうか。仏陀の教えとなんら関係なく。意外にも、日本へ仏教を伝えたのは自分たちだ自負する中国や韓国では「そんなことしたら騙されて損するだけだ」と考える人が少なくない。日本の店員などは教えられなくてもお客にそうするが、外国では必ずしもそうじゃない。「もうちょっと客扱いしてくれても」と思うことがほとんどじゃないだろうか。西欧では「チップをはずむなら」みたいな店員も多い。
日本人は一部を除き、ふだんあまり宗教を意識することがない。でも、お願いするときつい手を合わせたり、神社仏閣で癒されたりと、あんがい信仰深いところがある。至るところに神が宿っていることもごく自然に感じられる。日本人の美意識や、優しさにも。単に「村八分にされたくない」という同調圧力の結果でもあるにはあるが。
ともかく、無宗教を恥じることはない。
意識しすぎて争いのネタになるのもまた宗教だから。
和して同ぜず、違のまんま。
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