仕事のあと、カウンターバーで一杯。
他には中年男女のカップルが一組。男がカウンター越しにマスターに話しかけている。「多いねえ。自殺するやつ。若い奴らは忍耐が無くなってんじゃないの?」
違うよオッサン。
とぼくはひとりごちる。自殺で多いのはぼくら中年男だ。自殺者数を押し上げているのは自分たちで、「若い奴ら」じゃない。大半が40代以上の男性、かつ無職、または病人だ。死因はやっぱり生活苦なのだろう。仕事が見つからない50男。金も希望も尽きた。そんな姿が目に浮かぶ。
自殺しようとするヤツの気がしれないね・・
オッサンはまだ話を続けている。
ぼくは勘定を済ませ、店を出た。
攻めの時代があり、守りの時代がある。
いま日本は守りの時代の只中なのだろう。ぼくたちのようなオジサンが20代だったころ、日本は攻めの時代だった。80年代後半から90年代前半。社会全体が攻撃型で、だれもが背中を押されたように潮流に乗っていた。乗っていただけで、本人の努力でも実力でもなかったかもしれない。潮流に乗れなかった人たちには、手厚く保護されるシステムが整いつつあった。金が余り、人が足りない時代であった。
守りの時代のいま、その保護システムは定員オーバーになりつつある。たくさんのひとたちが殺到しているからだ。「不況なんだ、仕方ないだろう」と思えなくもない。だがひとびとが保護下に走りやすいほんとうの理由は、攻めの時代、豊かさに慣れてしまったからではないか。モノがあり、贅を知ってしまったからだ。それとのギャップに耐えきれず、しかもカラダがナマって奮起できない。
モノがない、貧乏で食べるものがない。
かつての日本がそうだったとき、まわりのほとんどの人がそうだったし、保護される環境もなかった。自分で何とかしなければなんともならない時代は、前に進み攻めるしかないのだ。ひとが自立し、成長するのはそんなときなのだろう。いまのASEANや中国、インドやブラジルの人たちはそんな場所にいる。
無理をしない。がんばらない。
そんな声を日本ではよく聞く。
同じことを他のアジアやアフリカ、いや、北米の人たちが言うだろうか? つくづく思う。人間は鉄のように、叩かれて叩かれて鋼(はがね)になる。努力したぶんだけ力がつき、苦労したぶん強くなり、悩んだぶんだけ大きくなる。
保護システムに頼ることがあたりまえになると、まっとうに自立できたり伸びる人たちにまで、その成長の根をつむことにならないか。人々からストレス耐性を奪い、ささいなことで病人にさせてはいないか。
自立心や向上心を失った人たちが保護システムへ殺到し、あふれ、はみだす。リソースには限りがあるのだ。大盤振る舞いがたたり、財源も減る一方である。はみ出た人のなかには絶望して命を絶つ者もいる。これが現状だとすれば、なんともやるせない思いがする。
守りの時代だからこそ、攻めの姿勢を忘れないでいたい。老いても、ほんとうに保護が必要なひとたちのために席を譲り、あいかわらずぼくは厳しい環境に飛び込み、そこで叩かれ、努力し、悩んでいたい。はた目にはオッサンだし、いささかあつかましいかもしれないけれど、これからも成長したいと思う。
生きるとはそういうこと。
叩かれ、悩み、努力することだ。
いつも足りないくらいがちょうどいい。
足ると、心も身もろくに動かなくなる。
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