デュッセルドルフ中央駅まで歩いて5分。
社会人になったばかりのころ、住んでいたアパートはそんな場所にあった。職場へも徒歩5分だったから通勤に必要なかったが、暇さえあればぼくは駅へと通った。古い木のベンチに座り、人々の行交いを眺め、パタパタと変わる発着時刻表を眺めた。ドイツ語以外にもいろんな言語が聞こえ、ボーンと構内に響く愛想のないアナウンスが、行き交う人々の声にかぶさった。石炭暖房の名残で宿命的にこびりついたコークスの匂いがただよい、ソーセージを焼く匂いやグミの甘い匂いがした。短い秋の終わりには焼き栗の匂いもあった。同じようにベンチに座りぼおーっとしているのは、他にはホームレスくらいのもんだが、ぼくはそんなホームレスすら興味深く眺めていたと思う。それらのなにが面白かったのか、もうはっきりと思い出せない。いまでは残滓しかない、ぴかぴかの好奇心が当時のぼくに満ち満ちていたのだろう。
両替所もぼくが駅に通う目的のひとつだった。
フランスフラン、英国ポンド、スペインペセタ、イタリアリラ・・、文字はめ込み式の掲示板には、そんな各国通貨の現在のレートが示され、カウンターではなじみのおばちゃんがつまらなさそうに雑誌に目を落としている。レート表にはソ連ルーブル、東ドイツマルクだってあった。ポーランドズロチもあったし米ドル、日本円もあった。そこには世界そのものがあった。
旅好きは今も変わらないが、当時はもっと激しかったように思う。休日が3日も続けばリュックひとつで旅に出かけ、旅に出るために年に何度か長いバカンスを取った。ドイツは年間で6週間くらい有給休暇があり、日本と違い残さず消化される。おかげで訪れた国や都市は数知れない。
だが時間はあってもお金はなかった。
いかに旅費を安くおさえるか、そのための工夫もまた旅の醍醐味である。駅に行くたびに両替所を覗いていたのも、現地通貨のレートが安いうちに両替しておこうとしたからだ。給料はドイツマルクで支払われていたから、マルクが高いうちに日本円に替えたりもした。なにがレートを上げ、下げるのか、それなりに勉強もした。こういうのも旅好きの効能である。もちろん原資が小さいから、効果があってもせいぜい数千円程度。それでも1つでも多くの場所へ訪れる機会になる。行動の源になる。
ギリシャの通貨ドラクマが夏は高く、冬に安いのを発見したのもそのころだ。観光業で潤うギリシャは、国外からの旅行者がドラクマに両替することで生計が立つ。エーゲ海が輝く夏はいっそうドラクマが買われ、レートが高くなるのだろうと思った。
ヨーロッパの通貨がユーロに統一されることを知ったとき、なんだかつまんない気がした。レート計算ができなくなるだけじゃない。そもそも国の通貨は自国の都合や他国からの信用に合わせて、呼吸をするように上がったり下がったりする。また市場でやりとりされることで、ある国が独善的に操作しようとしても、あっというまに市場によって浄化される。まだ東ドイツがあったころ、1:1で交換されるはずの東ドイツマルクは国の信用が反映され、市場では5分の1の価値しかなかった。だから両替オフィスでは100西ドイツマルクは、500東ドイツマルクと交換できた。通貨は信用を失えば安くなる。東ドイツはやがて崩壊し西ドイツに吸収され、ソ連は崩壊した。いまの韓国ウオンも言われるほどの信用力はない。中国共産党が嘘ばかりつくから中国元が世界で信用されないように。
ユーロが導入される前から、すでにギリシャは国家財政は破綻していたようなものだった。仕方がない。人々は納税をごまかすし、政府は帳簿をごまかす。それでもやってこれたのは、観光シーズンには外貨が入ってドラクマが上昇し、赤字を補填してたからだ。ドイツ人はヨーロッパ文明発祥の地と信じるギリシャとエーゲ海が大好きで、シーズンにはきまって多くの観光客が訪れ、マルクをドラクマに替えた。どうせならと島々に別荘を買うこともあった。
どうしてこんなギリシャがユーロに加盟できたのか謎だが、ユーロで臭いものに蓋をしたおかげで、ギリシャ自身がごまかし自国だけでつじつまを合わせていたものをいまじゃユーロを導入した他の16カ国が負担することになった。いや、ユーロ内で共食いの様相すらある。やはり国債と自国通貨は「対」になっていないと、調整弁が効かずねじれるものなのだろう。自国通貨は国の信用バロメータだ。ドイツやフランスと、ギリシャやスペインが同じ信用度のはずがない。警告は以前からあったが、世界はようやくそのことを学んだ。まだ流血は止まらないが。
▲ デュッセルドルフ中央駅正面のようす
いまもあの両替所はあるのだろうか?とふと思う。
だがもしぼくが20代でドイツで暮らしていたとしても、あのころのように中央駅には通わない気がする。いまはインターネットがあり、手のひらにはスマホがある。大陸を渡らなければ、両替の必要すらない。駅へ足を向ける必要は、乗車するときだけである。
そうやって人から行動力を奪うものが、いまの世の中には多い。
想像力を働かす機会も失われたかもしれない。
なにもかも「スマート」と形容したがる傾向にあるけれど、数年後にきっと恥ずかしい思いをしてしまいそうだ。
- 記事を書き終わるまで、じっと待つちびきち
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