26年ぶりに訪れるKL(クアラルンプール)は、あまり懐かしさを感じさせてはくれなかった。その変貌ぶりに記憶喪失者の気分である。写真では見ていた。だが、実際に見るペトロナスツインタワーはそれよりさらに美しい。チェックインしたホテルの部屋の真正面にそれは立ちそびえ、夜間照明を浴びて圧倒的な存在感をみせていた。
▲ 夜明け時の、ホテルの部屋から見たペトロナス・ツイン・タワー
右を日本のゼネコンが、左を韓国のゼネコンが建築した。2006年ワールドカップと同じ、日本単独で決まっていたものを韓国が強引に割り込む形で共同受注とした。「日本に負けるな」と完成を急ぎ、2日ほど早く終わったことで韓国人たちは鼻高々であった。のだが、引き渡した途端に電気工事の不備が見つかり、テナントがなかなか集まらなかったり、あげく、数センチ建物が傾いていたというオチがつく。
「傾いてなんかない!」韓国側は抗議した。そこで専門技師をわざわざドイツから呼び、測定させたところ、よけい傾いていることが証明されただけだった。国際司法裁判所に出廷しないのはこれがトラウマだからかもしれない。竹島もやっぱり日本のものだった、ということがバレたら困るから。
さて、ここKLへ来たのは観光ではない。
ぼくのような庶民でも買える物件を探しに来たのだ。このためKLに住む友人に、知り合いの不動産を紹介してくれるようお願いしてあった。
タイムリミットは2日。
同日、夜行便で東京へとんぼ返りである。紹介された不動産の担当はジュリエットさん。その名からは想像できないほどコテコテのおばちゃんである。先週までカーテンだったんじゃないか、と思うような手作りのスカートをはき、真っ赤な古いメルセデスに乗っている。もう本国ドイツでもみられないシロモノだ。広東語訛りの英語を話し、いつも悪態をついているが、笑うとなかなかチャーミングに見えなくもない。こともないかもしれない。
メルセデスはKLの街をぼくたちを乗せて駆けまわる。
渋滞にもまれ、高速をすっ飛ばす。
KLの大気はお世辞にもきれいじゃないが、車内よりはマシな気がした。古いアパート郡の後ろにできたばかりの高層ビルがそびえ、眩しい陽光をガラスに反射させる。幾つもの建設途中のビル、道路工事、モスク、バイク、スカーフを頭に巻いた女性たち。この街は発展の渦の中にある。ジュリエットさんはヘッドセットで次々に電話をかけては、何かを決めていく。問い、笑い、どなり、うなる。英語と広東語、あるいはどちらでもないもの。パワフルである。ポンコツでもメルセデスなのだ。
いくつかの物件を回った。
エリア名を言ってくれるのだが、ぼくには判別できない。コンドミニアムは香港ではおなじみだ。メイドさん用の小部屋もある。プールもあるし、ジムもある。だが安い。1スクエアフィートあたりの値段は香港の10分の1以下である。天井は香港や東京より高く、ヨーロッパ並だ。天井から扇風機が吊るされているのが普通だからかもしれない。ということは同じ階数ならば、日本の建物よりずっと高いのだ。
「今回は下見だけだから」
と友人には伝えていたが、気がついたら決めていた。
地上46階のビルにある40階に位置する部屋。しかもモノレール駅が直結していて、映画館やら遊園地まで入っている超大型商業ビルである。2棟が向い合って立ち、間にプールや中庭がある。ひとつはホテル、もう一つがコンドミニアムだ。ロビーにはアラブ人など多くの外国人が目立ち、盛んに出入りしていた。
「中東は暑いからマレーシアに涼みに来るのよ」
とジュリエットさんはいう。南国マレーシア、だが中東はそれ以上に暑いのだ。おまけにKLの銀座であるブキ・ビンタン通りにも近い。
▲ ブキ・ビンタン通り付近のアーケード
「これなら借り手が絶えないはずだ」と直感した。
大理石のエレベーターに廊下、部屋はホテルの Jr.スイートルームのようだった。白いダブルベッドに白いソファ、バスタブと大理石の洗面台。ここはすでに短期滞在者用の部屋なのだ。床までガラス張りの窓からあのツインタワーも見える。40階の見晴らしはさすがに圧巻だ。管理会社のポールさんは、言う。
「オーナーのあなたには毎年、120万円の家賃が支払われます」
▲ 翌朝、KLCC公園でスタバの朝食。ジョギングする人や朝の出勤風景を眺めながら
翌日、ジュリエッタさんの務める不動産のうち、唯一クレジットカードが扱える支店へメルセデスは向かう。2%の手付金を払うためだ。今回は買うつもりなんかなかったので現金などもってない。だが決めた。念のためにと、前の晩、ロンドンに住む事情通の友人に電話した。「あのへんはマレーシア国家プロジェクトで、近く国際金融センターがおっ立つエリアだ。7000億円プロジェクトだぞ。これからオイルマネーがじゃんじゃん入ってくる。化けないはずがない。そんな場所どこをどうやったら見つけられたんだ!?」と興奮しながら言う。「偶然だよ、まったくのね」と、ホテルの部屋でぼくは歯を磨きながら答えた。
あるいは何かの間違いなのかもしれない。
そんな間違いをぼくはこれまで何度もしてきたし、だぶんこれからもするのだろう。世界は悪意に満ちていて、ナイーブな人々の柔らかい肉を貪り続けているのだ。日本の感覚ではびっくりするような安い値段で、これまたびっくりするような良い条件の部屋をこんなにも簡単に見つけ、手にすることができるほど世の中は甘くはない。
あと数時間でKLを離れなくてはならないとき、ぼくは友人とジュリエットさんの車で弁護士事務所へ向かう。手続きを進めるためだ。世の中が甘くないかどうかも確かめられる。買い手と売り手、ローンを組むシンガポールの銀行、これらのやりとりは弁護士が仲介し、公平におこなわれる。こうしてさじは投げられた。「この物件なら間違いないわね」と女弁護士は言う。「銀行にはちゃんと査定してもらうけど」
弁護士に来月また会おうといい残し、ぼくは帰路の空港へと向かう。
「あたしもお金があったら買ったのに・・」
とジュリエットさんが最後にぽつんと言う。
カーテンのようなスカートがゆれていた。
だけどぼくの心まではゆらさなかった。
来月もまた、KLに来ることになる。
ぼくは自分の買う部屋を、宿泊客として予約することにした。
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