「だからあ言い訳するんじゃねえよ!」
という大きな声に振り向くと、30代くらいの男がケータイ電話で誰かを叱っている姿。イライラした様子でコンビニの前に置かれた灰皿スタンドにタバコを押し付けている。どこかちょっと懐かしい光景でもある。
誰もが「いいわけをするな」と教えられてきたと思う。「まずは謝り、いいわけをしない」のは日本人に課せられた行動規範のようでもある。お決まりのテレビの謝罪会見はこれの象徴。会社のトップが深々とお辞儀をしてみせ、しゃんしゃんとなる。
だが日本を一歩外に出れば、これがもう、いいわけだらけである。その応酬にめまいがするほどだ。遅刻をしてきた部下に「ノー・エクスキューズ!」と叱れば「それではなぜ私が30分遅れた理由をあなたは理解することが出来ないが、それでいいのか?」と真顔で言われる。こちらは遅れた理由よりもまず、誠意を確認したいだけなのに。
とはいえ、誠意や謝意をこれでもかと見せつけられ、そのくせ責任説明がないのには困ってしまう。上司と共にやってきてひたすら謝る取引先の若手社員に「だから、どうしてこんなことが起こったのか説明して欲しい」といっても、ただ平に伏しているだけで、らちがあかないのだ。これじゃ対策の施しようがない。こういう光景も日本ならではで、他ではちょっと見られない。
これは外交についても言える。
メディアを賑わす竹島、尖閣にしたって、本質は対韓外交、対中外交の問題先送り体質のツケが回ってきただけの話。とうに問題を認識していた人たちからすれば「なんでいまさら?」といった感じだ。
竹島には従軍慰安婦問題が、尖閣には南京大虐殺が、実はセットになっている。「それはそれ、これはこれ」と言いたくもなるが、中韓の世論はそうは(わざと)考えない。
戦後一貫して日本は謝罪外交で問題を解決しようとしてきた。論点を明確にすることを避け、ただ「謝罪」をくりかえす。宮沢元首相、河野元外務大臣、村山元首相などは、相手から言われるまま謝り、ひどいときは相手から言われる前に謝ったりした。救われないのは「謝ったんだから自分はいい人」かのようにふるまっていたことだ。とにかく「まずは謝意を」という日本人の行動規範が「揚げ足を取られる」好例となった。
相手が怒っているから、まずは怒りを鎮めようと謝り、そのうえいいわけをしない。これじゃ「たとえ捏造した歴史観であろうと、とにかく責めれば日本は謝る」という前例を残し、そのうち「とにかく怒れば日本は謝り、こちらの言い分が通る」ようなメッセージとして伝わっている。
例えば従軍慰安婦問題。
そもそも論点は従軍慰安婦がいたかいなかったかではない。従軍慰安婦はいた。だが争点はそこではない。いま日本が責を負うかどうかは「日本政府または軍部が強制連行したかどうか」の一点である。この点、強制連行の事実はまだ証明されていない。そもそも強制連行の話がでたのは韓国朝鮮側でなく『私の戦争犯罪』を書いた日本人、吉田清治の証言を発端としている。まるでノンフィクションのように書かれていたが、後に本人が「あれはつくり話でした」と証言してしまい、盛んにあおっていた朝日新聞がどっちらけになってしまったオチまでつく。だのにろくに検証もしないまま、これを根拠に謝ったために「ほらみろあったんじゃないか」ということで今に至っている。このときわざわざ韓国まで行って元従軍慰安婦を担ぎ上げ、日本政府を相手に裁判まで起こしたのは「人権弁護士」と呼ばれる(なぜか)日本人たちだ。もと社民党代表、福島瑞穂もそのひとりである。なりの果ての民主党がああなのも、いわんやである。
・・・
話がそれた。
こっちの話になるともういくらでも出てくる。
とにかくいいわけは必要である。
ぼくはどんなに怒っていても、いいわけが妥当なら「ああ、なるほどそれならわかるよ」と納得する。むしろいいわけもせずにひたすら謝られても困るし、かえって誠意を感じられない。
いいわけは権利であり、また義務でもあるのだから。
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