グルジアの古都、クタイシの公園で
ちょっと懐かしい風景を見た。
母親が6歳くらいのわが子の頬を平手でひっぱたいていたのだ。聞き分けのない子どもを親がぶつ。かつて日本でも普通にみられていた光景である。ぼくなんかもよく叩かれていた。「なつかしい」と思ったのは、そんな光景は今じゃほとんど見られなくなったからだろう。
小さい頃は体罰で何が正しいかをわからせる。10歳か11歳くらいになれば言葉でわからせる。ドイツで暮らしていたとき、どの親も子にそうしていたのが新鮮だった。ぶって知らしめ、言葉で知らしめるのだ。しかも「そんな言葉、まだ知らないだろう」と思うような大人の単語を使って叱るのだ。「ダメでチュねー」なんて言葉を使う母親には、祖父母世代がこれを叱っていた。
子供を殴るのは、野蛮な親である。
日本で暮らしていると、いつの間にかそんなふうなすり込みがなされてしまう。「虐待」という文字が頭に浮かぶ。体罰を与えた先生は、そのことで責を負い免職されたりもする。そりゃまあ中にはひどい先生だっているだろうが、体罰よりも、子どもたちに嘘を教える先生のほうがよっぽどひどい。いじめられている生徒を見て見ぬふりをする先生こそ免職ものだ。
制度と節度。
よくアメリカは制度で人の行動規範を決め、ヨーロッパは節度で決めると云われる。(言っているのは、まあぼくなのだが)あながち外れてはないと思う。ヨーロッパで暮らしているとき意外だったのが、「そんなの常識だろう」という不文律があちこちにあったことだ。やっていいのか悪いのか、アメリカは法律や契約で縛るが、ヨーロッパでは必ずしもそうじゃなかった。だから節度なのだ。
節度を知る、ものごとをわきまえる。
というのは、いわれはするが定規で測ったようにはいかない。だけど気がつけば、ほとんどのひとはちゃんとそれをやっているのだ。罰を与えてはみ出ないようにするのがアメリカ式なら、共同体が見守ることではみ出したものを悟らせるのがヨーロッパなのかなと、あらためて思う。
▲ グルジアの少年 (クタイシ行きの列車の中で)
暮れなずむ広場に面したベンチに座り、ぶたれて泣く子どもと、腰に手をあて泣き止むのを辛抱強く待つ母親の姿を交互にながめていました。ある種の郷愁にかられながら。
最近のコメント