弱い人を助けましょう。などという。
あたりまえじゃないか。と思う反面
弱い人ってなにが弱いんだろう?と、ふと思った。
ちから? あたま? 経済力?
もしかしたら、立場?
世の中にはいろんな「弱い人」がいるのだ。
だいぶ前に読んだ本(メモが残っているだけでタイトル忘れました)のなかに、「貧困をなくすには、恵まれない人たちを考える金持ちを増やしてもダメで、むしろ貧困層の中から金持ちになろうと努力する人が増えることが肝心だ」というのがあった。
恵まれない人に食べ物を与えればすぐ食べちゃうし、お金を与えればたちまちつかっちゃう。本来なら食べ物を作る方法を学び、お金を作る方法を学ぶべきなのだ。まして大事なのは、それを学ぼうと努力する本人の意志や実行であって、与える側の努力ではない、ということだ。
「格差社会」がひとり歩きするところでは「金持ち憎し」の旗のもとに人々が寄り集う。マスコミも拡声器をもってやってくる。気づけば、貧しい人達が安心して暮らせる国づくりがどうのこうのと議論が始まる。
だがそれを美しい。とは思わない。
貧しい人達が「景気だって悪いし」とか「まあ保護ももらえるし」と情況に甘え、努力して稼ごうとしなくなれば、貧困は決してなくならない。代わりに増えるのは、ただの「なまけもの」かもしれない。単なる「いいわけのうまい人」かもしれない。
元英国首相マーガレット・サッチャーは「富裕層を貧しくすることで、貧しい人々を豊かにすることはできない」と言った。正論である。毛沢東の文化大革命が失敗したのはこのせいでもある。
弱い人を助けたい。
その心は美しい、かもしれない。いまひとつ確信が持てないのは「美しい心」には、なにかしら人を酔わすところがあるからだ。
案外「弱い人を助けたい」を唱える人の中には、助けた結果、弱者が自分より強い立場になることを嫌がる人もいる。弱者にはいつまでも弱者でいて欲しいと。でないと「いい人」である自分の立つ瀬がないと。こんなふうに美しい心をして自己犠牲に酔いしれれば、往々にして本末転倒な結果を招きやすい。
それが高じて「弱いもの探し」をする人たちがでてくる。見つからなければ作ればいい、という人たちまで出てくる。韓国までいって元従軍慰安婦をひっぱりだしたり捏造したりして、共に日本政府を相手取って賠償金まで要求する人たちまでいる。
弱い人。
それはお互いさまではないのか、と思う。
人はそれぞれに弱い存在だ。弱いからこそ、他人の弱さを理解し、何とかしてあげたいと思う。互いに助けあうことを「互助」というが、これはお互いの弱さを認め、手を差し伸べあえる行為なのではないか。そこにあるのは「豊かな心」だ。逆に、なにかと勝ち組、負け組と分け、自分は常に勝者であろうともがき、弱者を見つけては安心する。弱者を救っているように見えて、実は優越感や「いい人」である自分に酔ってしまう。世に「貧しい心」があるとすればこういうのをいうのだろう。
これまでいろんな人を見てきたけれど、実感として、日本人は「豊かな心」を持った人が多いように思った。といいたいところだけど、意外とそうでもない。むしろ少し貧しい国の人達のほうが、心が豊かであるような気がする。反比例しちゃうんだろうか。
ぼくしってるよ。よわいニンゲンはつよがるのさ。そしてよわいことがバレそうになるとぼうりょくをふるうんだ。よわい犬ほど吠えるっていうけど、これはニンゲンだっておなじだよね。
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