どちらかと言えばネガティブな意味合いが多いロボットも、日本では印象がまったく違う。「強い」「頼れる」「かっこいい」の三拍子。これはほとんどの日本人が少年・少女時代にロボットヒーローものに接して育った影響があると思う。
世界のロボット工学をリードしているのは米国と日本。
だが目的はまったく違う。米国は「軍事目的」がほとんどで、日本は「人間のサポート」が主な目的だ。ぼくの家にあるロボットは『ルンバ』くらいのものだけど、これは米国製。「家電じゃん!」と一瞬思うが、ルンバの発祥はもともと地雷除去ロボットであった。
少し前のことだけど、米誌フューチャリストでは、日本の「Robovie(ロボビー)」を取り上げていた。日本ではすでに1969年から二足歩行ロボットを開発していたことに触れ、ロボビーは過去のどのロボットとも違う!と絶賛している。
人間は情況を識別しながら行動をとるものだけど、ロボットにはこれが得意でない。 Yes / No でしかパターンを認識しないからだ。だから言葉なり信号などでいちいち命令するしかない。たまに人間でもそういう人がいるけれど。
対してロボビーはこれができるのだ。
行動範囲に入ってきた人間が会話をすべき相手ならば近づき、声をかける。混雑した場所では高速での移動はしない。対象となる人間がどの位置へ移動しようとしているのか、そこで何をしようとしているのかを予測し、人間のために行動する・・・などなど
そんなロボビーは道に迷っている人を目的地まで案内したり、高齢者のために買い物をしたり、目の見えない人のために盲導犬の役目をしてあげたりする。つまり、社会的弱者を辛抱強く助けることが得意なのだ。
人口の3割が高齢者という時代を迎える日本だからこそ生まれた、と同誌はその需要を高齢化社会にみようとするが、ぼくはちがうと思う。少なくともそれだけじゃない。
みっつある、と思う。
まず、日本人は幼いころから人間とロボットの幸せな関係をごく自然にゆめみていた。それからこれを叶えるための技術力を「からくり人形」のころから持っている。最後に、日本人のコミュニケーションがハイコンテクスト型であるから、ということ。
ハイコンテクストって?
コンテクストを直訳すれば文脈、ここでは「コトバ、共通認識、体験、価値観、嗜好性」なども含まれる。これらが濃厚に共有されているのがハイコンテクスト文化で、そうでもないのがローコンテクスト文化である。基本的にまわりと同じでなければ落ち着かない日本人は前者の傾向があり、多種多様であることが前提の欧米は後者の傾向が強い。良し悪しではなく、違いである。「あ・うんの呼吸」や「空気を読む」なんていう発想は、日本以外ではあまりみられない。
日本人はコミュニケーション下手などといわれる。
一部を除き、会話時間そのものが少ない。外国から日本に帰ってみると、人数の割にあまりにも人の声がしないのでビックリする。言葉が足らなくても論旨が明瞭でなくても、なんとなく会話が成り立ってしまうのが日本。その実態は、話し手がダメでも聞き手のほうがいっしょうけんめい理解しようとするからだ。察しあう文化である。「あれ、やっといて」で通じてしまうのは、最たるハイコンテクスト・コミュニケーションかと思う。
英語がいくらしゃべれても外国で日本人が苦労するのはそのことだ。「なんでいちいちそんなことまで・・」という説明を求められることが多い。仕事の会議ではもちろんだけど、例えば国際結婚した日本人はつねづねそう思うのではないか。だから一時帰国し、同じ日本人と話すと心底リラックスするのだ。
立場を変えれば、いくら日本語が上手でも外国人は「なぜあんな説明ぽっちで意味が伝わるのか」と戸惑う。とくに欧米人は言語依存のローコンテクスト型。言葉による論旨が明確でないと理解しづらいのだ。「空気?それって読むものなの?」てなもんである。これにはぼくも同情するのだけれど。
そんなふうにロボビーについてのニュースを目にし「これはもう日本でなきゃ作れなかっただろうな」と思えた。ロボットに「空気を読む」ことをプログラムするのは世界でも日本人くらいのものだろうから。
もちろんハイコンテクスト文化はマイナス面もある。
だけど、日本人には常に自己犠牲を払ってでも「相手と傷つけ合わない関係」でいることを重んじるところがある。それが道理に合わず、論旨が不明確であったとしても。相手が外国人であっても、たとえロボットであったとしてもだ。
「相手を察して行動する文化」
この国の人たちはロボットにもつい、
そんな温かみを求めちゃうんである。
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