あれからそろそろ一年。だが復興にはほど遠い。
問題は瓦礫の処理だ。時間はたっぷりあったが、まだ5%しか片付いていない。処理を分散しようと各都道府県自治体に呼びかけたところ「放射能汚染がコワイから」と住民が受け入れを拒否。デモが起き、怒号が飛び交った。子どもの安全が保証されない、と。
この場に及んでこれだ。
これが「絆」の本性だったとはと、残念でならない。
1980年はじめに台湾でこんなことがあった。
ある鉄鋼会社が誤ってコバルト60(放射性元素)を鉄筋に混入させてしまい、あろうことかこの放射能を帯びた鉄筋で1700ものアパートを建ててしまっていた。そのことが発覚したのは15年も後のこと。その間住民は、自然環境の実に30倍の放射線を浴びながら暮らしていたのだ。数万人もの住民である。さっそく調査団が結成され健康調査が行なわれる。放射線量を鑑みれば、住民1万人に対して160人のがんの罹患が予想された。かの鉄鋼会社は万死に値する。
はたして結果は?
5人であった。がん罹患率にして0.05%。大量のがん患者発生どころか、平均レベルよりずっと少ないのだ。ちなみに日本では1万人あたり32人である。調査結果では、高レベルの環境被曝が住人にがんに対する効果的な免疫を与えていたようだと結論された。原爆投下後、広島・長崎でも起こっていたことが、あらためて再確認された形であった。【ウォールストリートジャーナル誌の記事をもとに作成】
「知らぬが仏」とはこのことかもしれない。
なにしろこのアパートの住人数万人が浴びていた放射線量はおよそ年間30ミリシーベルト。福島の避難地域のなんと10倍である。そこに数十年住み続け、発ガン率は平均より少なめという事実。だがそんな住人も、もし自分が被爆し続けていることを最初から知っていれば、がん患者は増えていただろう。もちろん原因は被曝ではない、デマや風評によるストレスだ。
たとえば福島の放射性被爆による死者や健康被害はいまのところゼロである。だが結婚を解消されたり、迫害を受けた人は少なくない。昨年4月、「せめて一泊だけでも」と土下座をする福島からの避難民に「放射能で汚染されているから」と追い返す宿泊施設もあった。嘆かわしいのは、避難区域民10万人に見られる絶望による体調不良や「うつ」、そして自殺である。亡くなった方はいったいダレに殺されたのか?チェルノブイリ原発事故時でも、胎児への影響が心配と、欧州中の妊婦から10万人もの赤ちゃんが堕胎された。生まれてくる生命もまた殺されたのだ。
「安全だ」と言えば「ウソだ、危険に決まっている」と返され、「危険だ」といえば「ほらみろ、やっぱり危険じゃないか」と返される。放射線のように無色透明でじわじわ身体に効いてくるモノに、人間の危険本能は大いに刺激されるのだろう。デマや風評も起こりやすい。それによって傷つく人たちも多いが、騒ぐ人たちは自分も傷つけられたと思っているから、たちが悪い。
そんな被害者妄想に取り憑かれた人間からも、放射線ならたっぷり出ている。放射性セシウムにして常時5000ベクレル。体重50kgのひとなら100ベクレル/kgである。ところが厚労省がこのたび基準とした「安全な食品」とは100ベクレル/kg。乳幼児ミルクの場合、50ベクレル/kgとされている。まさに世論に押された感じで決められたのだろうが、どう考えても厳しすぎる。母親に抱かれると赤ちゃんは被曝するといっているようなものだ。
人から出る放射線は体内に蓄積されているカリウム40によるものだ。いわゆる「ミネラルたっぷり」と言われる食品に多く含まれている。ほうれん草で229ベクレル/kg、バナナが122ベクレル/kg、干ししいたけには666ベクレル/kgと多く、干し昆布にいたってはなんと2333ベクレル/kgもある。
これらを摂取すれば当然内部被曝する。
枝豆なら1.1マイクロシーベルト、ほうれん草なら1.42、チョコレートで5.28である。先ほどの干し昆布では14,46マイクロシーベルトも被曝する。かといって、これらの食品を食べるなとは言わない。むしろ健康によいとされる。低レベルの被曝によって人間の細胞はより強くなり免疫ができる。筋トレと同じだ。筋肉細胞が壊されれば更に強い筋肉が組織される。なんにせよ人間は傷つきながら強くたくましくなっていく。そういうものである。
いっぽうで、責任追及を恐れて基準を高く設定する厚労省。そのため「なにを作ってもダメと言われる」と途方に暮れる東北や北関東の農家たちは、本当に救われない。おいしい野菜を食べてもらいたいとがんばってきて、打ちひしがれている。
だからといって、ぼくは原発推進には反対だ。
原発の廃炉には30年もかかり、発電により発生する高レベル放射性廃棄物は数万年しないと無害にならない。現世の人間がこの世を謳歌するために使用する電気のために、10万年もの後世にわたって「危険物取り扱い」を申し送らねばならない発電方法は、人類の冒涜(ぼうとく)であるとすら思う。
だけど同時に、あの原発事故からこっち、放射能への過剰反応のために苦しむ人達をないがしろにはしたくない。マスメディアが流す報道は「甘い見通しより厳しいほうが、批判されないし注目度も高い」という報道ポリシーに従っているだけだ。こんなものに振り回され、狼狽するひとびとに迫害を受けている人の存在を忘れたくない。
放射線ではない言葉の暴力はつくづく恐ろしい。
あの3.11震災直後、ぼくは連日にわたって「原発事故による放射線被曝はたいしたことない」「発がん率は放射線によるものより、むしろ喫煙によるもののほうが高い」と言い続け、そのことで多くの非難メールを受信することになった。なかには「もし死人が出たらお前も責任とって死ね」というものもあった。ぼくは「かまわない。だけど1年以内に放射線による死人が出なかったらあなたはどう責任を取りますか?」と返事した。以後、この人から返事はなかったし、1年たとうとする今も放射線による死人はいない。
福島原発事故による放射性物質の放出は関係者の尽力でほぼ止まった。これ以上汚染されることはもうない。昨年の4月には福島県飯舘村は30マイクロシーベルト/時を記録していたが、現在は5マイクロシーベルトまで下がっている。これからも下がるだろう。
放射性物質に過剰に反応する人びとのなかには「福島のため」「子供たちのため」と善意に基づいて行動していると主張している。そのとおりなのだろうとぼくは思う。だが裏付けのない善意は、ときに悪事になることもある。
「人の為」と書いて「偽り(いつわり)」と読む。
先人たちはとうに人間の本性を見抜いていたのかもしれない。
追伸:こんな記事に心が痛みます
心底、嫌悪と怒りがこみ上げる話である。被災地選出の国会議員が、やりきれない
悔しさを込めて語った。「福島近郊にある高速道路のサービスエリアで、地元の銘菓や食品類が大量に捨てられている。おそらく、県外の住民が福島で地元の人からもらったお土産を捨てているのだろう。訪ねてくれた御礼に被災者たちが用意したものだったはず。福島県内の高速を回ると、残念なことにそれが事実であることは簡単にわかった。磐越自動車道・阿武隈高原SA(サービスエリア)の女性清掃職員が証言する。「確かに、よくお菓子が捨てられています。福島のおまんじゅうだとか、封を切らないお菓子の箱だとか。もったいないなと思ってましたよ。それと野菜も多い。ごみ袋を片づける時に、いつもよりずっと重いからすぐわかるんです。ああ、またかって。じゃがいも、大根、椎茸、りんご。ビニール袋に入っていたり、大根は新聞紙に包んであったり、いかにも実家で分けてもらったという状態のまま、ごみ箱に投げ込まれています。息子が福島に住んでいるからわかるんです。嫁は県内産の野菜を食べなくなった。だから、野菜を持たせても、どうすんだかなって思ったりするんですよ」【週刊ポストサイトより】
人間って
よいニュースより、
わるいニュースのほうが
ちゅうもくされるんだってーへえー ふしぎだねー
そうだねーおかしいよねーおなかすいたねー
そうだねーおなかすいたねー
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