あなたには友だちが何人、いるだろうか?
ぼくには友だちと呼べる人は、そんなに多くない。
こう書くとなんだか自分が、人間嫌いの偏屈オヤジのような気分になってくるのだけど、人間は好きだ。だが、友だちを数で競う風潮になじめない。
ケータイの電話帳にはじまり、マイミク数、ツイッターのフォロー数、フェイスブックの友達登録、デジタルツールはものごとを数で表すのが得意だ。数字が可視化されれば、増やしたくなるのが人情。そのことはとてもよくわかる。
気軽に「これみて!」と投稿。対して「いいね!」。
ボタンひとつで気分や同意を表現できる時代。
どこにもいかなくてすむが、同時にどこにもいけない。
自分の存在を誰かに知ってもらいたい。
それはまた「ネット八分」というムラ社会への寄り添いでもある。
デジタル化が進み、わかったことがある。
アナログの価値が、相対して上がったということだ。
同時に、友だちが少ないのは悪いことじゃないと思えた。
ぼくの場合、友達はがんばって作るものではなく、ひとりでがんばっていたらいつの間にかできていた、という感覚に近い。加齢に伴い、それは強まった。「オレタチ友達だよな」という人は知り合いかもしれないが、たぶん友達ではない。相互確認は相互依存でもある。貸し借りの関係なら、友だちじゃなくたってできる。
おのずとぼくは友達も仲間も少ない。子どももいないから、晩年は寂しい人生を過ごすんだろうなと思う。でもかまわない。それがぼくという人間だ。だが、対価として自由がある。自由は時に過酷だけど、迷えばいつもそれを選んできた。
昔から、群れるのが苦手だ。
メリットもあるかもしれないが、行動を縛られ、自由を奪われる。
「群れる」と「蒸れる」は原因と結果、風通しが悪い。
友だちは少ないが、その友だちがまた、いい。適度に距離をおき、ほおっておいてくれる。互いの存在を気配で感じ、応援しあう。
自由への仕打ちは厳しいものがある。
世間のこわばりの強い日本では特にそうだ。
だけど迷えばやっぱりそちらを選ぶのだろう、ぼくは。
これまでがそうであったように、これからも。
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