書き込みサイトやブログ、最近ではtwitterでも、やたら怒りを爆発させているコメントをみかける。ふだん、あまりそういうサイトは見ないのだけど、たまたま調べものをしているうちに、ふと迷い込むのだ。
コメントを発した本人は、実生活ではネットでの書き込みのように攻撃的だったり、怒りで相手を罵倒するような人ではないのかもしれない。それどころか、人間味があるいいひとなのかもしれない。だけど、ネット上に残された「不機嫌なコメント」は、本人の性格や人間性とは別に存在し続ける。放置された生ごみのように、周囲に臭気を放ち、近づくものを不快にさせる。発ガン物質さえもよおさせる。
人間は腹を立てたり、ひとたび怒り出すと、頭の回転が柔軟性を失って悪くなる。「どうしてそんな些細なことで?」とあとで自分でも不思議なくらいムキになり引くに引けなくなるのは、理性的な思考とか判断が、脳内物質ノルアドレナリンによってフリーズされちゃうからだ。
過去の経験かが引き起こすストレスにはノルアドレナリン。逆に、この先なにが起こるかわからない不安によるストレスにはアドレナリン、それぞれが分泌される。
怒りのスイッチがカチンとはいるとき、なにかしら過去に遭ったイヤな経験も誘引される。「地雷を踏まれる」ってやつだ。ノルアドレナリンが分泌され「既知の不安」が誘爆したのだ。「え、そんなことで怒るの?」と相手は思う。だが、怒りはさらに過去のトラウマなどにも誘爆し、二波、三波と怒りがおしよせている。自分でもビックリするくらい腹がたつとき、脳内ではそんなことが起こっているのだ。
腹がたつ時ぐらい、思い切り怒らせてくれ!
どちらかといえば温和なぼくでも、気の毒な机をけとばしたり、鉛筆を折ったりするほど腹をたてることがある。めったにないけど。もちろん、10代の頃のように通りの看板を壊したり、居合わせた他人を睨みつけてケンカを売ったりするようなことは、しない。やっぱり年をとることは素晴らしい。加齢は人を穏和にさせるのだ。自動車事故だって40を過ぎればがくんと減る。
怒りが鎮まったあとで「なぜ自分は怒ったのか」冷静に考え直す時間をもつといい。自分が怒るときのパターンがわかるし、怒りをぶつける先を本能的に選んでいるのもわかる。「ああ、自分はただ、認められたかっただけなんだな」などと、そもそも手段を履き違えてたこともわかる。
「ゆとり」がないのも怒りの原因だ。時間、空間、お金のゆとり。
ヘッセによれば「我々は彼の姿を借りて、我々の内部にある何者かを憎んでいる」という。つまり、自分に腹がたつことを、相手にぶつけているのだ。人間関係や価値観の「とらわれ」から自由になるには、じゅうぶんな広さや深さによるゆとりが必要だ。
誰にだって腹がたつことがある。そりゃまあ生きていれば、それなりに不条理で理不尽なことが身に起こる。
だけど、いちいち腹を立てていたら身がもたない。だいいち、だれのためにもならない。「部下や子どもを叱る」とはわけが違うのだ。「怒りっぽいところが魅力的」などと急にモテたりもしないし、「イライラしている姿にゾクゾクします」という人も、たぶんあらわれない。いてもただの変態さんである。
腹をたてることも時には必要だと、ぼくも思う。
人生「喜怒哀楽」はつきものである。
だけど、癖にもなる。
癖になると、これがなかなか抜けない。
周囲からも「あの人は怒りっぽい人だ」とレッテルが貼られる。
いちど貼られたレッテルは、なかなか剥がしてもらえない。
本人が変わりたいと思っても、そんなレッテルがじゃまになる。
誰かに腹が立ったとき、ぼくはその人が誕生した瞬間を思い浮かべてみることが多い。だれもが裸で、泣きながら、そして祝福されながら生まれてきたのだ。そう、あなたがそうであったように。
すると不思議なことに、腹を立てていることなんてもうどうでもよくなる。お互いさまじゃないか、というような気がしてくる。自分だって、これまでずいぶん許してもらってきたじゃないかと。
次回、怒りを鎮めたいときにでも、試してみてください。
それでもダメなら、ポストが赤いせいにでもすればいいです。
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