ぼくは子供の頃から聖徳太子が大好きで、
せっせと肖像画を集めていた。
それは一万円札のことだが、
福沢諭吉になってからは興味を失い、
いまじゃすっかり貧乏である。
というのは冗談だけど、
聖徳太子好きなのは本当である。貧乏もだが(泣)。
クリスチャンでもないのにドレスを着て教会で式をあげる。
仏教徒でもないのに仏壇に手を合わせ、初詣に神社に行く。
クリスマスも正月も同じように祝う。
盆・暮れは墓参りにだって行く。
日本では当たり前の風習だけど、
他の国の人びとからすればやっぱり異常に見える。
そのことを自嘲気味に批判する人もいるけれど
これこそが日本人のすごいところだといつも思う。
複数の宗教を、互いに排他せず共存させる。
それが可能なら世界はこれほど戦争をしなくてすんだのだから。
では、そんな日本人にダレがしたのか?
あの、聖徳太子 である。
▲ むかしの紙幣は、ぜーんぶ聖徳太子だったのだ
日本こそは宗教戦争が起こらなかった、ただひとつの国。
いや、一度だけあった。587年。
神道を支持する物部氏と、仏教を支持する蘇我氏の争い。
はたして結果は、仏教を支持する蘇我氏の勝利であった。
▲ 「蘇我いるか」だとかわいいけど、実際はとても怖い人だったようです。あと「小野妹子」が男だと知って、なぜかがっかり
蘇我氏は物部氏、大伴氏と並んで3大豪族のひとつだが、
こうした戦争や天皇暗殺などを繰り返し、やがて一極体制を敷く。
天皇をもないがしろにするほどのふるまいだった。
崇峻(すしゅん)天皇暗殺後は、推古天皇が即位。
なんと東アジアで最初の女帝であった。
また豪族の反発を食らって、暗殺などされないよう
女性にしたという説もある。
推古天皇は、政治の執権は皇太子である聖徳太子*1にとらせた。
いまの民主党と皇室の関係というよりは
戦国時代の征夷大将軍と天皇家の関係に近いと思う。
政権が豪族中心から天皇中心になるにはさらに数十年、
大化の改新(646年)まで待たなければならなかった。
聖徳太子は学校の教科書で習ったとおり
日本に仏教を広めたことでも知られる。
ぼくが小学校のときにはなんの疑問もなかったが、
やがておかしいと思うようになった。
そもそも天皇家は「神道」がルーツであり、
仏教なんかを支持したら天照大御神(アマテラス)
の子孫として矛盾しちゃうじゃないか。
「なぜ天皇家だけから天皇が出るのか」
その必然性が説明できなくなる。
知るにつけわかったこと。聖徳太子は、
自分が仏教信者なのはあくまでも私事ととらえ
法隆寺を建て、仏教の研究と布教に務めたのは
個人としてであり、政治的には神道を敬い
神道政治の保護者としてふるまった。
崇仏派で神道を排他しようとしている蘇我氏
との関係も絶妙なバランスをとっていたのだろう。
6世紀の後半に、半島からもたらされた仏教は
「教え」や「思考」ばかりではない。
医療やファッション、建築や工芸など
当時の日本にはなかった
「新しくてカッコイイもの」も含まれていた。
明治開国後の西洋文化や、戦後のアメリカ文化のようなもの
だったんじゃないかと思う。
民衆はたちまちとりことなり、仏教に帰依するものが激増した。
仏教は当時、ナウくて物欲が満たされるものだったのだ。
ふつう1つの宗教を信仰すれば、他を排するのが当然だ。
ひとりの人間が同時に複数の宗教を信仰するほどの堕落はない。
それが世界の、人類の常識だったのだ。
宗教対立を主因とした戦争は、過去幾度も繰り返されたし
いまも行われている。
いまもむかしも、日本人が宗教戦争を理解しづらいのは
それぞれの宗教が共存することに、違和感がないからだ。
複数の宗教が混合、同一視される現象のことを「習合」という。
聖徳太子がおこなったのはまさにこれである。
宗教や文化を、元あったものに「上書き」するんじゃなく
いいものだけを「併存」させる思考パターンを国にもたらした。
織田信長がキリスト教を受け入れたのも
明治時代に西洋の機械技術や議会制度を取り入れたのも
この思考パターンの応用と発展である。
ウエディングドレスが着たいから
それだけの理由で教会で式をあげる。
インチキ外人神父の前でも愛が誓える。
なぜなら愛の誓いは当人同士がするもので
神父を通じて神と契約しているつもりなどないからだ。
キリスト信者から批判がなくはないが
原理主義が高じ、異教徒と殺しあうより
ずっとマシな気がする。
「汝ら共に認め合い受け入れよ」だ。
■ ちびきち、宗教を語る
「ねえどうしてにんげんは、しゅーきょーなんてのがひつようなの?」「そーだね、たぶんそれがにんげんのよわさってやつじゃないかな」「へえ、ちびきちくん、なんだかきょうはテツガクてきね!」「でもテツガクはたべられないよ」「そーよねー、たべられないものはいらないよねー」
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