デジカメが普及し始めたのはいつのことだっただろう?
ところであなたが最初にデジカメを手に入れたのは
90年代なかば?終わり?今世紀に入ってから?
日本では「写メ」という独自の生態系があって、デジカメ普及の裾野は世界のどこよりも広がっていったが、そのことでアナログカメラを経ずにデジカメを手にした人口もまた激増したのではないかと思う。
アナログカメラ。
一眼レフですらほとんどデジカメに移行してしまったいまでは、もうノスタルジーでしかないのだろうか。レコードで音楽を聞いたことがない世代は、同時にフィルムカメラで写真を撮ったことがないかもしれない。
たしかにデジカメになってから、写真撮影は手軽になった。
フィルムを買わずとも現像に出さずとも、とった写真がすぐ見れるというのは便利だ。
だが便利さには、常に犠牲がつきまとう。
ひとつは「思い」である。
アナログカメラではフィルム代がもったいないので、できるだけ失敗しないようシャッターを押した。なんども構えなおし、アングルや光量に気を配った。念のため別の設定でもう一枚撮ったりもした。
そのことで、被写体に対しある種の思いをこめる意識や時間があったように思う。もちろん慌てて撮ることもある。だが、失敗していてはいけないと「念のための一枚」を忘れない。
デジカメになってからは「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」とばかりバシャバシャ撮り、あとでベストな一枚を選択できるようになった。さらにフォトレタッチソフトで加工することも気軽に出来る。そのように「あとでなんとでもなる」という甘えもあるのか、シャッターを切る意識がどうしてもうすくなる。つまりシャッターが軽くなるのだ。
この違いは「はじめからデジカメ」の世代にはちょっとわからないと思う。
デジカメ写真はネットとの親和性は高いが、仲間や家族で顔を付き合わせて見るには適さない。アンケート調査でも「写真アルバムを作る」ひとたちは過半数を割っているという。昭和時代には必ず家族のアルバムがあって、そこに幼い自分を見ると共に家族の絆を確認することができたのだ。
デジカメのデータをプリントすることはあってもすべてじゃない。
まったくプリントしないというひともいる。だが、
プリントされた「写真」にはデータでは得られないなにかがある。
先の大震災。
そこで人命活動や瓦礫の撤去作業をする自衛隊員や消防隊員は作業中、写真やアルバムを見つけるたびにそれを回収し、ていねいに泥を払っては、あとで捜しに来た人たちが見つけやすいよう例えば陸上競技場のスタンドのような場所に展示した。これがカメラ自体や写真データが保存されたSDカードだと、どうせ使えないしそれどころではないと瓦礫の一部として処分されてしまう中、写真は紙だがそのように丁重に扱われたのだ。このエピソードは人の心をうつものがある。だがなぜ、頼まれもしないのに自衛隊員たちはそんなことをしたのか?
それだけ写真というのは特別な存在なのだろう。
週末、久しぶりに実家に帰る。せっかくだから
古いアルバムから写真をいくつか、失敬してこようかと思う。
まだまだ経済効率性だけで、世の中は語れない。
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