暑い夏の昼下がりはハワイアン・ミュージック。
密かなマイブームである。ウクレレでも始めようかな。
知らない人はいないだろう『アロハオエ』という曲。
だがそれを作った人はあまり知られていないかもしれない。
ハワイアン王朝最後の女王、リリオカラニその人である。
19世紀末期ハワイ王朝は独立国であった。
だが、もはや風前の灯である。米国は太平洋を支配しようとホノルルに軍事基地を作ることを決め、1875年にハワイとの間に不平等条約を結んだ。そこでこしらえたのが真珠湾(パールハーバー)軍港である。それから宣教師を遣わせ、本土から移民を送り込む。軍事圧力をかけ、島の実権を握っていった。
アメリカ大陸で行ったおなじみの手法である。
テキサスもそんなふうにしてメキシコから奪った。
業を煮やしたハワイ王朝の女王リリオカラニは1893年1月、憲法を改正し、高額納税者に限られていた選挙権を貧しい島民にも与えた。高額納税者とはつまり米国入植者のことだ。当然彼らは既得権を奪われてはと、猛反対する。盗人猛々しいにもほどがあるが。
在ハワイ米公使スティーブンスはリリオカラニに腹を立て
「血に飢えた淫乱な女王が独裁政治を復活させた」と本国に打電。
それはおまえのほうだろう、とツッコみたくなる瞬間だ。
打電を受け、米国から戦艦ボストンがホノルルへ入港。
海兵隊が上陸してイオラニ王宮を占拠、軍事クーデターを起こし女王を退位させる。こうしてハワイ王朝はこの世から消滅し、ドール大統領によるハワイ共和国が樹立した。
▲ 米国による軍事クーデターで樹立したハワイ共和国。後に米国に併合された。
ハワイの混乱を聞き、日本は軍艦2隻をハワイに派遣。
「浪速」と「金剛」だ。艦隊を率いるのはあの東郷平八郎である。
「武力でハワイ王政を倒す暴挙が進行している」とさっそく宣言。
「我々は危険にさらされた無辜の市民の安全と保護に当たる」と。
1893年といえば、ちょうど日清戦争の前の年。
日本はまだ開国してから間もなく、もちろん世界を相手に戦ったこともなかったが、正義感だけは強かった。また、東郷平八郎は、11年後の日露戦争でロシア艦隊を滅ぼした英雄でもある。
▲ 東郷平八郎元帥(ハワイ派遣当時は大佐)
巡洋艦「浪速」と「金剛」はホノルルに入港し、ちょうど戦艦「ボストン」を両側から挟むように停泊。明らかに米国への抗議だ。だがファイティングポーズは取らない。目的はあくまでも無辜の市民の保護である。保護対象は日本からの移民、ハワイ島民、そして米国移民者である。
まんまとハワイ王朝を滅ぼしたドール・ハワイ共和国大統領は共和国樹立を祝えとホノルルに停泊している各国船舶に祝砲要請を要請するが、東郷は「その要を認めず」とこれを拒絶。他国の軍艦や商船も東郷にならい、祝砲はついになされなかった。「まるで喪に服したかのように静まりかえる共和国樹立であった」と、当時の新聞で報道されている。
各国から祝砲を拒絶され、米国は大恥をかかされた。
のちの大統領、セオドア・ルーズベルトはこのとき海軍次官。
よほど悔しかったのだろう。日清戦争で日本が勝利した後、友人マハンに「私は明日にでもハワイを併合し島中に星条旗を立てたい。多くの軍艦を造り、太平洋に配置したい。私は日本の脅威をひしひしと感じている」と書簡を送っている。
▲ セオドア・ルーズベルト米海軍次官、後に大統領に就任。親日家と言われるが?
セオドア・ルーズベルトは大統領就任後「日本の脅威」に対抗して、次々に手を打つ。たとえば日露戦争の講和条約の斡旋がそうだ。中国ばかりかロシア相手にも日本に勝たれてしまっては、米国の太平洋支配が難しくなる。この戦争結果は、せめて日本の「判定勝ち」程度にとどめる必要があった。
1905年、奉天でも日本海海戦でも勝利を収めた日本。ロシアの艦隊は黒海艦隊を除いてほぼ壊滅していた。黒海はトルコが封鎖していたから、池の上のあひる状態。制海権をとった日本はウラジオストックも占領できたし、やろうと思えば北海までいって、サンクトペテルスブルグを艦砲射撃することだってできた。
ゆえに、当時の日本の新聞は「ロシアに勝てば樺太、カムチャッカ、ウラジオストックを含む沿海州は日本の領土になり、さらに賠償金として30億円*1は取れる」と予想していたのだ。
ルーズベルトは日本が確定勝利をする前に、仲介に乗り出す。
はたしてポーツマス条約では賠償金ゼロ。申し訳程度の樺太の南半分を獲得したに過ぎない。あれだけの戦果を上げながら、まるで日本は勝たなかったかのような結果に終わった。
セオドア・ルーズベルト大統領は、親日家のふりをして「ハワイの恨み」を果たすことに成功した。さらには日英同盟を、英国にアイルランド問題の弱みにつけ込んでこれを破棄させた。
あとは歴史が見たとおりである。
セオドアの義理の甥、フランクリン・ルーズベルトは日本にハワイを攻撃させて太平洋戦争を勃発させ、日本を滅ぼす途中で他界した。次のトルーマン大統領は2つの原爆を日本に落とした上、日本を四つの島に閉じ込めるための『日本国憲法』を発布した。それから日本人に逆恨みされないよう共通の敵として、東郷英機を他の戦犯と共に始末し、ここにようやく「日本の脅威」は終焉をみた。実に巧妙である。いまだに日本人は戦争罪悪感に苛まれているのだから。
「リメンバー・パールハーバー」は米国人のためのものではない。
領土を奪われたハワイ先住者のためのものであり、あのとき見せた日本人の心意気のことではないか。
すべてのはじまりは「アロハオエ」を作った女王に同情し、ホノルルに投錨した「浪速」がきっかけであった。といえば、出来すぎだろうか。
▲ 航海中の浪速。ハワイ出港後、日清戦争で戦い、日露戦争でも戦った名鑑である。
だが、あれから「ナニワ」とは
ハワイの現地語で「ありがとう」の意味となった。
「ナニワ」「トーゴー」という名のハワイ人も多い。
■ 今日のおまけ
カタイ記事だとコメントしづらいだろうからと、とうちゃん、また、へんなビデオクリップ作ってアップしちゃったよ。あまりにもくだらなさすぎて、おいら、つくづくなさけないのさ。(by ちびきち)
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