ウ・ソーというウソのような名を持つ人物を知る人は少ない。
だけどこの人の数奇な運命はまるでスパイ映画を観ているかのようで、日本とも不思議な因果がある。ぼくがミャンマーに関心をもつきっかけとなった人物だ。
ウ・ソーはかつてビルマ(今のミャンマー)の首相だった。
だが当時のビルマは英国の植民地。つまり植民地政府首相である。
時は1941年11月、宗主国英国は折しもナチスドイツと戦争中。
同盟国のフランスが降服しオランダやベルギーも陥落、ロンドンは空襲され、かろうじて撃退したころだ。ウ・ソーはそんなロンドンを訪れチャーチルと会見、直談判した。
「我が兵を英国のために差し出すから、戦後は独立させてほしい」
東アジアでは日本の動きが不気味だった。
日米交渉は決裂し、もしかしたら明日にでも宣戦布告してくるかもしれない。そうなれば英国はヨーロッパだけでなく、アジアでも戦争を始めなくてはならない。兵は欲しいはずだ。ウ・ソーはそう読んだ。
だがチャーチル首相はその提案をあっさり断る。
後で側近に「彼らに必要なのは独立ではなく鞭だ」と吐き捨てた。
ウ・ソーは落胆し、その足で今度は大西洋を渡る。
米大統領ルーズベルトと会見を試みたのだ。先日の大西洋憲章の発表(いかなる国も奪われた主権は回復すべきだ)を聞き、米国ならきっとビルマの立場を理解してくれるはずだと信じた。きっと純粋な男なのだろう。
だがルーズベルトは会おうともしなかった。大西洋憲章はナチスに土地を奪われた東欧諸国を想定したものだ。ビルマだと? たかが植民地の有色人種ふぜいで白人と対等のつもりか!という感じであった。
▲ ウ・ソー元ビルマ首相
ウ・ソーは失意のまま帰国の途に発つ。
米大陸を横断し、サンフランシスコから飛行艇でハワイに飛んだ。島伝いにフィリピンに向かい、そこからビルマに戻るために。だが予定が狂った。そこで一泊した翌朝こそは、まさに日本軍のハワイ奇襲攻撃その日であった。
6隻の空母から発進した航空機183機が飛来し、オアフ島の米太平洋艦隊の艦船に爆弾を落とし始めた。翼には真っ赤な日の丸。ジャップの攻撃だ!と人々は驚愕した。まさか・・・
驚いたのはもちろんウ・ソーも同じだった。
「日本が? 数十年前ロシアをやっつけたあの・・」
日本の艦載機は係留していた米戦艦などを次々に沈めていった。
米戦闘機や爆撃機は地上で破壊され、ようやく飛び上がった戦闘機も日本のゼロ戦にハエのように次々に叩き落されている。
ご主人と崇め、絶対に逆らえなかった白人たちが、同じアジアの日本人にけんもほろろにやられているではないか。
その歴史的瞬間をウ・ソーは偶然、目撃することになる。
「ウッソー!」
そういったかどうかは知らないが。
日本は米国、英国に対して宣戦布告。
こうして太平洋は戦闘状態に入り、民間の航路は全てキャンセルされた。しかたなくウ・ソーも来た路を逆にたどる。ニューヨークからロンドンへ、それから中立国のポルトガルへ入る。そこで日本の快進撃をニュースで知る。
アフリカ行きの便を待つ間、彼は決心し、こっそり日本公使館の門をくぐる。頼れるのは日本しかない。当時白人以外の国で唯一欧米に立向かった国。祖国独立のために組む相手として不足ない、と。
さっそく彼のメッセージは、リスボン発東京で暗号打電される。
「ビルマの独立尊重を確約すればビルマは日本の指揮下のもと英国を駆逐する。日本の必要とする資源はことごとく提供する用意あり・・・」
ビルマもまた他の植民地同様、日本の進軍に期待したのだった。
ウ・ソーは思わぬ収穫に明るい将来を夢見ながら帰路を急ぐ。
歴史は我に味方した、とでも思ったかもしれない。
けれどもジブラルタル、北アフリカを経由してハイファへはいったとたん、ここで待ち伏せしていた英軍兵士に捕まってしまう。逮捕容疑は宗主国に対する反逆罪。ウ・ソーは囚われの身となった。
リスボンから東京への打電は、暗号が解読されてしまっていた。戦後わかったことだが、そのころの日本の暗号はことごとく解読されている。おそらく真珠湾攻撃のことも。知っててまず相手に攻撃させる。それが米国の戦争の始め方だったのだ。
ルーズベルトはその顛末を聞き、裏切り者は皆殺しにしてはどうかと英国に打診する。だがチャーチルはウ・ソーを殺さずにおいた。殺せば日本に暗号が解読されていることがバレるし、元首相はあとで使えるかもしれない。老獪英国は一枚うわ手だった。
こうしてウ・ソーは殺されず、英領ウガンダに幽閉される。
やがて日本が敗れ終戦になってから、祖国に戻された。
再び首相の座に戻れることを英政府からほのめかされながら。
そのころビルマではボージョー・アウン・サン(スー・チーの実父)が、約束通り日本から寝返ったお礼として、独立後のビルマは自分が統治するという口約束を英国諜報部から得ていた。
英国得意の二枚舌だ。独立後の覇をめぐりアウン・サンとウ・ソーは対立する構図となる。やがてウ・ソーが狙撃されるという事件が起こる。弾丸はわずかに頭をそれた。命を取り留めたウ・ソーは、自分を殺そうとしたのはアウン・サンの仕業だと信じた。どうしたものかと思いあぐねんでいたところに、タイミングよく英軍大佐が現れ、短機関銃などの武器やとジープを差し出すと、そのまま姿を消した。
ある閣僚会議場に数人のビルマ人青年が乱入し、短機関銃をぶっぱなしアウン・サンらが射殺されたのは、それからまもなくのことだった。
▲ 射殺された独立の士アウン・サン*1。彼の命日は今は祝日となっている。
ウ・ソーは殺人容疑にかけられ、やがて死刑となった。
英国は自分たちに逆らった二人を、こうしてまんまと手を汚さずして始末した。いずれも祖国の独立を信じ、頼る相手を逡巡し続けた志士であった。
英国の紳士協定を信じ、米国の平等主義を信じ、日本の軍事力を信じたビルマ。どこの植民地にもなったことのない日本人にはその痛みは知りようもないが、うかがい知ったこともまた事実だ。
ビルマの戦闘で日本軍は20万人近い死者を出し敗退した。
本気でビルマを独立させたかった日本人も少なくないのだ。
ウソのようなホントの話である。
ビルマでは独立は日本の功績だと子供たちに教えるが、日本では「日本軍は残虐でアジアで悪いことばかりしていました」と教える。
これも、他の国が聞けばウソのような話である。
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