「困った時の神頼み」なんてことをいう。
ふだんは信仰心などろくにもっていないのに、都合のいい時だけ神仏にお願いをする、どちらかといえば悪い意味で使われることが多い。「祈る」ことを習慣にしていないぼくのような人間には、わりと耳の痛いはなしである。
ミャンマーなどの仏教国や、中東・北アフリカなどイスラムの国では、祈りは生活の一部で、まるで時報のように行われる。高度資本主義に毒されているぼくのような人間から見れば、もう少し経済活動に勤しんだほうがいいのでは?などとフトドキにも思うのだけど、彼らは働く手を止め、ひざをつき、頭を垂れる時間をたっぷりこしらえるのだ。
その光景を美しいと思うには思う。
だけど神さま仏さまもたいへんだろうなあと、もう片方で思う。
そんなに大勢で祈られたら、対応が追いつかないんじゃないか。
人はなぜ祈るのか?
それが今回のテーマだ。
「ねえ、いまなにを祈ったの?」
「ふふふ、ないしょ(はあと)」
みたいな光景はぼくにはもうないが、やはり訊いてみたくなるのが人情だ。旅行中、出会うミャンマー人に片っ端から聞いてみたが「フフ、ないしょ」などといわず、わりと正直に語ってくれた。
彼らは「世界が平和でありますように」などとは祈らない。
たいていは自分のことでお祈りするのだという。「家族のことは?」と訊けば、家族はそれぞれ自分のことを祈るからいいのだと。なるほど。意外とそっけない。
彼らは輪廻を信じる。
つまり自分が今不幸なのは、前世の行いが悪かったからだと諦め、
金持ちのあいつは前世でどんな善い事をしたのだろう?と考える。
いま善いことをし徳を積んでおけば来世で報われる、と信じているのだ。
ブッダにまつわるさまざまな言い伝えは「こうすれば願いがかなう」といった、おまじない的要素が多い。ブッダの髪の毛や爪が納められているといわれる仏塔(山の頂上とかにある)4箇所を一日で回りきれば願いが叶う、というのもそうだ。
▲ 巨大な仏像は造るのもたいへんだが、維持するコストはさらにかかる。コストは寄進によって賄われるが、寄進する民衆は心はともかく経済的には貧しいままだ。
「今はいい時代です。車でならカンタンに1日4箇所回れます」
バガンを案内してくれたソウさんはニコやかにそういう。
時代を、そう使っちゃうのかよ。
▲ ミャンマーは自家用車がビックリするほど高い。日本では数万円しないような古い車種の中古車が、ここでは300万円もする。だから「これで走るなんて奇跡だ」くらいのポンコツタクシーだって営業できる
人は往々にして壁にぶつかる。
問題が起こり、悩みが発生する。
うまくいくこともあるけど、いかないことも多い。
どちらかといえば、うまくいかないことのほうが多い。
ふつうのひとは壁にぶつかればそれを超えようと努力し、問題が発生すれば解決しようとする。報われない努力や、実らない成果も少なくないけど、それでも苦労してやり遂げようとするのが人間だ。その積み重ねこそがその人の成長であり、ひいては人類の進歩のはずだ。
ミャンマーの人たちはお金に余裕が出来れば、せっせとパゴダ(仏塔)に寄進する。徳を積むためである。ひとびとの「徳」と引換えにパゴダは修復され、仏像や屋根は黄金に輝く。入り口にはそんな寄進をした人達の名前が刻まれる。
▲ 寄進すると、こんなふうに鉄格子に名前を残してくれる。ちなみに日本人も寄進していた。それにしても肩書きまで残すとは!?
だけど、とぼくは思う。
修繕が必要なのは自分たちの住んでいる家の方じゃないかと。学校に行かせず畑仕事をさせている子供たちの教育費ではないのか。
▲ シャン高原での朝の通勤ラッシュ風景。どこの職場に運ばれていくのだろうか?
祈り。
それは本来、誰かのためであり、感謝のためのはずだ。
とぼくは思う。
あるいは亡くなった肉親への呼びかけ。交信。
八方手を尽くし、もう祈るしかないときのためだ。
はじめから祈ればそれですむ、
という考えにぼくはどうも違和感がある。
前世 〜 現世 〜 来世 という考え方にも。
外国人に政治と宗教の話をするな、とよくいわれる。
だのにぼくは、話せる人間を捕まえてはそんな話ばかりをした。ミャンマーでは「どうどうと軍事政権の悪口は言えないんですか?」などと、とても答えにくい質問を投げたりもした。とんでもないヤツである。帰国後そのことを友人に話すと「私服警察に見つかったら、つかまってたぞ」と脅された。
それこそ留置場で祈らなくちゃならなかったところだ。
だから思うのだ。
「困った時」の神頼みでじゅうぶんじゃないか、と。
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