日本と同じく単一民族国家だったビルマ。
それを多民族国家に変えたのは、かつての宗主国、英国である。
理由はシンプルだ。多民族同士で争わせれば、一致団結して英国人に刃向かうことはない。欧州発、植民地政策の常套手段である。
アフリカや中東、アジアではそのようにした。
インドもだ。18世紀当時で4億人もいたが、たった2000人の英国人に統治されていた。税をむしりとられ、人間の尊厳すら奪われた民衆はしかし怒りをどこに向ければいいのか。
ビルマにおいて英国人は「はいみなさん、こいつらがあなたの敵です」と異民族を指さした。理由は宗教でも近親憎悪でもなんでもいい。中国人(華僑)やインド人を悪役にすることもあった。彼らは期待に応え、嬉々として原住民を攻め立てた。
1824年、1852年、1885年と3度も侵略戦争を起こし、ビルマ王朝を滅ぼした英国。さっそく入植と同時に華僑をどんどん入れ、インドからはヒンドゥー教徒を入れた。さらに周辺の山岳に住んでいたモン族、カチン族、カレン族などをキリスト教に改宗させては、山から都会にに下ろした。多民族多宗教国家の完成である。首都ラングーンのビルマ人は、わずか35%にまで減ったという。
英国人は華僑に貿易取引の下請けを任せ、金融業をインド人に任せた。治安はモン族やグルカ兵にやらせた。ビルマはビルマ人のものではなくなり、王制は絶たれ、拠り所を失った民衆は厳しい圧政に喘いでいた。
そこへやって来たのが日本軍である。
1941年ビルマ独立義勇軍と共にイギリス軍を急襲し、翌年これを追い出した。
ビルマ人からの逆恨みをおそれ、あわてて華僑も逃げ出した。インド人も逃げ出した。ビルマ人たちは日本軍を救世主として歓迎した。快く思わないのは華僑ら中国人だ。これは香港、マレーシア、インドネシア、フィリピン、ベトナム、シンガポールなどにも共通する。戦後、日本軍はひどいことばかりしていたと訴えるのはたいてい彼らの子孫である。
その執念は凄まじい。
70年経った今でも全世界レベルで反日集会を起こしている。困った人たちだが、彼らを勇気づけているのが朝日新聞のようなジャーナリストや大学教授たちだ。教える立場の人がこうだから、教えられる方はたまったもんじゃない。日教組は日の丸と君が代を異常なほど嫌うが、逆にビルマの人たちはいまでも国軍記念日に日章旗を掲げ、日本の軍艦マーチを流用した軍歌を演奏して英雄たちを称える。
▲ 大ポスターに書かれた『大東亜共栄圏』の英文字。日本ではありえないスローガンがミャンマーにはまだ残っている
1945年、敗戦間際の日本軍を蹴散らして戻ってきた英国軍。さっそくビルマも香港やエジプト同様、英連邦に組み入れようとするが、ビルマは断固拒否。交通規則も英国式ではない右側通行にし、外国語大学の科目から英語を外し、代わりに日本語をいれた。
英国のビルマ憎しは想像に余る。
だが仕掛けはじわじわ効いていて、アウン・サン・スー・チーは西欧諸国をしてミャンマー軍事政権を悪役にする良い口実になっているし、植民地時代に山から下ろしたまま戻らなくなった少数民族は、民兵となって政府を悩まし続けている。
日本がバブルに浮かれていた1989年、ぼくの誕生日と同じ日に、ビルマは突然ミャンマーに国名を変えた。正式にはミャンマー連邦国 (the Union of Myanmar) 。
国名変更の理由は諸説ある。
まず英国の植民地支配当時に使われていた国名をやめたいとする説。ビルマ人だけでない多民族を指す意味にしたかったという説。この国の祖である王朝時代から使われていたミャンマーこそが国名にふさわしいとされた説。まあ、どれか一つというよりは全部ひっくるめたのだろう。
ミャンマーは国連にも承認された正式な国名だ。けれどもこれを嫌がり、いまだに「ビルマ」と呼ぶ人たちは少なくない。世界各国の民主化活動者たちがそうだし、軟禁されていたアウン・サン・スー・チーもそうだ。
ヤンゴンはビルマ語で「闘争の終わり」という意味である。
だが、闘争は終わったわけではない。
ヤンゴンの治安を案じてか、首都は320km内陸のピンマナに移された。
なかなか興味惹かれる国である。
次の旅はここにしよう。
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