やはり原発のことを書く。
それから日本の運命はこの数日で決まるということも。
大地震と津波、これほどの被害がでると誰が予測しただろうか?
外国人にとっては、日本人の耐性や秩序もまた予測外であった。
エールと賞賛、これが海外から届く日本へのメッセージだった。
そのことに励まされ、被災地に想いを馳せた一週間である。
しかしここ数日、海外メディアのトーンは変わりつつある。
同情的な報道は減り、増えたのは原発事故の報道。
津波は対岸の火事、だが放射能は我が身にも振りかかるのだ。
人類にとって、核の恐怖は生存本能のなせる技である。
扱うにはやはり100年、早かったのでは?と。
連日、競うように日本から外国人が脱出している。
もちろん、日本への渡航もとうぶん見合わせだ。
誰が彼らを責められる?
立場が逆なら日本人だってそうしてきたではないか。
日本人は今後、同情から隔離される対象になるのか?
ふだん、ちびきちを預けている託犬所。
フロアには見慣れない大きなクレートがいくつもある。
訊けば「外国人の飼い犬たち」なのだという。
愛犬を日本に残し、付近の外国人たちは遁走したのだ。
同じ飼い主として憤りを感じる。しかし
はたして彼らはただの臆病者なのだろうか?
核兵器は言うに及ばず、
なぜ平和利用であるはずの原発が危険なのか、
ここで原子力発電の仕組みを俯瞰してみる。
焚き木を燃やすと炭ができる。
原発に置き換えればこんな感じだ。
この「使用済み核燃料」は再処理され、
どうやったって残る圧縮された高レベル放射能核燃料と、
プルトニウムが抽出される。そう、あのプルトニウムだ。
図にすると以下のとおり。
長崎に落とされた原爆には、これが8kg使用されていた。
いまそのプラトニウムを日本は5万kg、保有している。
北朝鮮は50kg持っていると言われただけで6カ国協議である。
その1000倍を保有しているのだ、日本は。
もちろん日本はこれで核爆弾を作ろうとしていたわけではない。
再処理をして、さらに発電の燃料にするつもりだったのだ。
いわゆる「高速増殖炉」というやつである。
だが技術が追いつかなかない。
プルトニウムは、20世紀中にはいささか暴れ馬すぎた。
政府が発表しているのは、どんなに早くても2050年以降。
そのつもりで原発を始めたのに、話が違うじゃないかと思う。
今の電力量でプルトニウムを抽出し続ければ
年間8000kg精製されるという、とんでもないことになっている。
もちろん、抽出されるすべてが日本に保存しているわけではない。
そこでいくつかはフランスとイギリスに輸出して、再処理を依頼。
「再処理」は国ごとに定義が違う。「平和利用」の解釈すら違う。
フランスは1995年に核実験を行ったが、
この時使われたのが日本からのプルトニウムであった。
これからのことを考えよう。
問題は国内にある使用するかどうかわからないプルトニウムと、
放射能をまきちらす「高性能放射能核物質」をどうするか、だ。
焚き木を燃やしてできる炭は、色々と便利に使えるが、
原発でできる核物質は、ただの猛毒だ。
密封し、地下数百メートルに埋め、数百年はそのままに。
問題が大きすぎて、問題であることすら忘れようとしているが、
この核廃棄物を捨てる場所を、日本はまだ見つけられないでいる。
この国が子孫に残すのは借金ばかりではない。
カンボジアには、まだ地雷が埋まったままかもしれないが
日本には核廃棄物がたくさん埋まっているということだ。
地雷は罪なきひとりを殺すが、核廃棄物は?
おそろしくてこれ以上書けない。
きょうのことを考えよう。
きょうも福島第一原発は燃え続けているが
それ以外の原発も「正常に」燃え続けている。
だが、もうよしにしないか。
核はこりごりである。人類にはまだ早すぎたのだ。
原発による発電量は国内消費量の30%をまかなっているという。
つまり、節電するならそれ以下にせねばならないかもしれない。
もちろん4月末まで、しかも関東、東北のみ
なんて、のんきな話ではない。
寒い時代である。
だが、越さねばならない冬である。
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満員電車の中でこれを見たとき、
はからずも落涙。恥ずかしいが涙が止まらない。
世界よ見ておけ、これが日本だ
日本はこのまま「有終の美」を世界に飾るのか。
それとも「冬を超えて」みせるのか。
まだまにあうはずだ。ドドンがドン。
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