先週の今ごろはまだ・・・
そう思わずにはいられない。
でも起こったことは起こってしまった。
言いたいことがある。
原発の話だ。
石油のような国際相場価格に翻弄される発電より、原子力発電のほうが安定かつ大気を汚さないという意味ですぐれていると思っていた。少なくても必要悪であると。
特に日本などの先進国のように、資源のないわりに消費電力の多い国ではそうだ。幸い、そうした国はたいてい技術力があり、安全に対する意識が強い。まして日本である。原発の安全性はお墨付きである。と、そう信じていた。
ところがどうだ、福島原発。
第1原発1号機の操業開始は1971年3月である。「30年」で寿命といわれる原子力発電所において、さらに10年も老朽化しているのだ。しっかりメンテナンスしてれば・・という問題ではない。まして地震国、さらに津波もある。「想定外だった」とはいわせない。東北ではすでになんども地震にまみれているからだ。
福島原発の耐震設計は国内最低の270ガル*1で設計されている。
今回の地震ではその10倍、2900ガルであった。
「1000年に一度の巨大地震だったから」という説明は虚しい。実際のところ、2008年の岩手・宮城内陸地震はM7.2では3800ガルが計測されているからだ。この間、手はいくらでも打てたはずだ。
地震を感知すると原発はまず「停止」、次に「冷却」し、「閉じ込める」。では、福島はどうだったか?
「停止」はした。だが「冷却」に失敗した。
「閉じ込め」は津波の来るまでの1時間のみ。
自動車のエンジンなどは停止すれば自然に冷える。追いつかない場合はしばらくラジエーターが動いて強制冷却させる。このときラジエーターを動かすのは電気だ。福島では冷却中、津波が襲ってきて配電盤が水浸し。つまりは冷却装置が作動しなかったのである。注水して冷やそうにもポンプを動かす電気がない、そういう状態だ。当然、温度は上昇する。それも半ぱなく、だ。
地震が原因で冷却装置を動かすための送電がされなくなっても2重、3重の手はあっただろう。「電源車」もそのひとつだ。ケータイの外付け充電器のように、これを現場に派遣し、送電してやればあるいは助かったかもしれない。しかし津波がそれを阻んだ。
テレビでなんとか教授はメルトダウンは2800度から、なんてことをいっていた。けれどもスリーマイル原発事故で判明したように、燃料棒は600度で溶け始める。いったい原子炉内部は何度まで上昇しているのであろうか。外に漏れていた煙、冷却水を一瞬にしてあれほどの水蒸気にしたのだ。
▲ 原子炉がシャットダウンする仕組みを描いた図 すごくわかりやすいです
それにしてもだ。
福島原発内に残っている東京電力の社員200名。
ぼくたちの祈りはいま、そちらにも向けられる。
彼らの、おそらく自分たちの運命はとうに覚悟しているにちがいない。それほどの大仕事だ。不眠不休ですでに6日目め。その疲労困憊ぶりは察して余りある。
4号機の核燃料のプールは沸騰していることだろう。
ここには多くの放射能がある。
彼らは命を国に預けた兵士ではない、警察官でも消防士でもない。
ごく普通の会社員たちである。
しかし背負っている「願い」は果てしなく重い。
だからいまも必死に、文字通り必死に、絶望を希望に変えようと懸命に努力している。
まずは原子炉の制御。第二原発は冷却にほぼ成功したという。
あとは第一原発だ。
ここの4つの原子炉を同時に、無事に、冷温停止できれば・・
けれどもこんなウルトラCをやってのけた英雄は、人類の歴史上、ただのひとりもいない。スリーマイル原発事故の原子炉はひとつであった。はたしてどれほどの希望が残っているのか、想像もできない。
しかし希望の糸はすべてここに集約される。安全な温度は100度以下、そこまで冷却するには慎重な、しかも長時間にわたる作業が幾重にもある。少なくても数日はかかるはずだ。
たったいま高圧放水車が現地へ向かった、というニュース。
ありがたい。
地震、つまり陸による直接被害がまずあり、
津波、つまり海による被害は、その何千倍もあった。
はたして空は?
放射能の被害はどこまで食い止めることができるのか。
彼らはきっと期待に応え、成功してみせることだろう。
やがて命を救われたぼくたちは、
それこそ死にものぐるいで日本のを復興させるのだ。
冗談抜きで、いまの日本は1945年の8月と同じである。
ワールドカップの、何億倍もの応援を彼らに!
*さらに東芝電力システム社の社員が700人、応援に駆けつけるというニュースが入ってきました。社長自ら陣頭指揮をとるとも。誰もが命がけで未曾有の危機から日本を救おうとしています。希望がまたひとつ、増えましたね。
2020年3月8日追記:
この記事を書いたのは震災が発生して5日後のこと。余震がまだ収まらず、情報は錯綜していました。第一原発2号機は冷却されないまま暴走し、圧力に耐えかねて大爆発を起こすのでは?といわれていました。爆発すれば連鎖的に他の原子炉にも影響し、隣の第二原発4機も制御できなくなる。半径250kmは大量の放射線により未曾有の大惨事となるところでした。「Fukushima50」というのは現場で働く東電社員50人を指し、後に主に海外メディアで報じられ、世界に知られることになりました。この記事をアップするタイミングではまだ得られる情報もあいまいでしたが、仮説を自分なりに立て根拠となる情報を集めながら書いたのを覚えています。その後、朝日新聞が一面トップに「現場の職員は命令に逆らって逃げ出した」などと誤報し、彼らの奮闘や決死の努力を無に帰そうとしたりしました。ノンフィクション映画『Fukushima50』が2020年3月に封切りされ、あのとき現場はどうだったのか、ようやく広く知られることになりました。彼らがあの場であの作業をしていなければ、いまの日本はなく、歴史は変わっていたのです。
*1:ガル=振動の単位
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