ぼくにとって初めてのベトナムは80年代の終わり。
観光ではなく、出張を命ぜられてのことだった。
ホーチミンは大きな都市であったが、向かったのはその郊外。とても小さな町。名前は忘れた。難しい発音だったし、覚える間もないほど滞在時間は短かった。同行してくれた老齢のベトナム人通訳の名前もちょっと思い出せない。
そのときの印象はふたつ。
ひどいインフラ環境と、人々が意外と親日家だったということ。
台湾で感じた、いささか懐かしい印象もあった。
第二次世界大戦当時、
日本軍はアジアのあちこちで戦闘を行なっていた。「多大な迷惑をかけた」政治家はそのように語り、謝罪をする。ベトナムでも同様だ。軍政を敷き、日本人が200万人も虐殺したと新聞で読んだことがある。ということもあって、彼らの親日ぶりが意外だったのだ。
日本がベトナム(当時は仏領インドシナと呼ばれていた)に軍を送ったのは1940年。まだ太平洋戦争が始まる前だ。日本は中国と泥沼の戦争をしていたが、米国や英国とはまだ開戦していない。
中国との戦争が終わらなかった理由はふたつある。
広い大地がそうだし、米国、英国、ソ連が武器を無償で中国へ与えていたというのも、そう。中国軍(蒋介石軍)の使用していた武器は、たいていこうした国からのもらいものであった。日本軍側は武器弾薬を節約しながら戦っていたが、中国軍は欧米列強から与えられた武器をたっぷり使って戦っていた。
ひどい話である。
太平洋戦争が始まる前から、英米ソは中国を通じてすでに日本と戦っていたのだ。アジア人同士を戦わせていた、と言ってもいいかもしれない。
日本軍がベトナムに兵を送ったのは、そこで民衆を虐殺をしたかったからではない。中国へ送られる軍事物資のルートを遮断したかったからだ。そのころベトナムを植民地にしていたのはフランス。だが、フランスはすでにドイツに負け、親独政権に代わっていた。ドイツは日本の同盟国、ならばと日本はそこへ兵を送る口実ができたというわけだ。
▲ 1940年当時 英国、米国、ソ連による中国への軍事物資援助ルート
ベトナムにおける日本軍の使命は、中国に送られる軍事物資を遮断すること。これだけだった。だからそこを領有していたフランス軍とも戦わなかったし、ましてやベトナム人を殺す必要もさらにない。戦場ですらなかったから、戦後になって言われるような「軍政」など敷く必要もない。まあ今で言う在日米軍のようなものである。在日米軍は日本に軍政など敷いているだろうか。
むしろ軍政を敷いていたのはフランス軍のほうだった。
フランスはドイツに負けたとはいえ、ベトナムを領有していることに変わりない。仏軍ドクー提督は相変わらずベトナム人にアヘンを売りつけ、華僑を使ってベトナム人から厳しく税を取り立てていた。歯向かうベトナム人はすべて刑務所へ送り、ギロチンで処刑した。ギロチンである!
▲ ベトナム、ハノイ市にあるホアロー収容所に展示されている当時のギロチン台。ここを訪れ、独房など見学していたとき、ひどい耳鳴りにずっと悩まされることになる。
▲ 収容所の独房のドア。覗くと小さな寝台があり、足元は挟み込み式の足枷が。
そこに進駐していた日本兵はそれをみて心を痛めた。だが日本はフランスに宣戦布告をしていない。どうすることもできなかったのだ。
きっかけは1944年6月のノルマンディ上陸作戦。
アメリカ軍がドイツからフランスを解放したこの作戦は、地球の反対側にも影響した。フランスは連合国側となり、日本とは敵国同士となったのだ。ベトナムではフランス軍と日本軍のにらみ合いが始まった。日本軍は他の地域で負け戦が続いており、これ以上敵は増やしたくなかったが、かわいそうなベトナム人のこともあり、ついに蜂起。一気に仏印政府を倒してしまった。1945年3月の明号作戦である。
日本軍は兵力3万、対するフランス軍は5万。結果は日本の勝利、刑務所に閉じ込められていたベトナム人全員を解放した。折しもハノイでは洪水と干ばつで多くの餓死者が出ていたが、日本軍はそこに仏印政府が占有していた食庫を彼らに明け渡し、命を救った。これの影響でベトナム、ラオス、カンボジアはそれぞれフランスから独立宣言。拍手喝采。日本は自分たちが戦争に負ける直前で、アジアで大命を果たしたのだ。
けれども時、すでに遅し。
1945年8月、日本は連合国に無条件降伏。
ベトナムも再びフランス人たちのものになった。が、彼らは自分たちがベトナム人の恨みを買っていることは重々承知だった。そこで武装解除したばかりの日本兵に再び銃を持たせ、今度はフランス人居留地を守るよう見張り番に立たせた。
ベトナム民兵は、フランス人が見張り番に立つときはまず彼らに夜襲をかけフランス居留地を襲ったが、日本人が歩哨に立つと攻撃をしなくなった。やがて、その横を通り抜けてフランス人を襲うようになった。日本兵たちはその間、夜空を見上げていただけだった。
同じ夜空を見上げながら
ぼくは通訳のおじさんからそんな話を聞いていた。
不思議なものである。
昔の日本人がよいことをした話は、たいてい外国で聞く。
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