あなたが持っているその財布。
いくらで買ったものだろうか?
ある本で読んだのだけど、財布の値段に200を掛け合わせるとそのひとのふさわしい年収になるんだそうだ。 もちろん、深い根拠はない。 お金に対する考え方が、その人が持つ財布にも表れるのだと、その本にはあった。
なるほど、と思う。
日本ではそうでもないけど、香港で暮らしていたころはわりと多国籍な大金持ちと接する機会があった。 その多くは会社経営者のほか、不動産や株の配当といった不労所得者である。彼らや彼女らに共通していたのは、とにかく財布がスマートでキレイということだった。 それからほとんどが長財布であった。
「紙幣は折ってはダメですよ」
とある香港人CEOはそういった。
VISAのブラックカード保有者でもある。
ぼくの香港滞在時代は、前半バブル、後半はそれがハジけてさんざんであった。 苦し紛れに東京に支社を立ち上げたが、これがさらに負債を増やす元となった。 その頃はちょうど厄年であったが、実際のところモノの見事に厄年だった。
髪も愛もお金も、失ってはじめてその尊さを知る。
どん底に喘いで借金を返していた当時、ぼくは運命を呪い、お金を呪っていたものだ。
そう、人は貧するとお金を呪うのだ。
「給料が下がった」とか「ボーナスが出なかった」と嘆く周囲を尻目に、「あるだけマシだろう」と心のなかで愚痴った。こっちは口座にお金が無くたって、遅延なく従業員たちには給料を払わなくちゃならなかったのだ。 まいどながら月末が怖く、年度末が恐ろしかった。
あんな時期も今は昔、
今はようやく人並みな生活を送っているけれど、あの頃一緒にやっていた仲間たちや出会った人々には、感謝の気持ちでいっぱいである。 やんちゃで深慮に欠けるぼくに、多くの試練や貴重な経験を与えてくれた。
「そういえばあれが転機だったかな・・」
とぼくがそう思うとき、偶然に財布も変わっていた。
とくに意識したわけじゃない。 たまたまなくしたり、汚れたり、飽きたりして、変えざるを得なかったのだ。 変化が激しいとき、不思議とぼくの財布自体も変化していた。 ぼくは縁起をかつぐほうじゃないけれど、財布についてはつくづく縁起物であることを実感する多くの中のひとりである。
財布をコロコロ変えるのがいいとも言えない。
できるだけ良い財布を長く使うことも必要だ。
でも、ツキを変えたいときはまず財布を変えてみるのもいいかもしれない。 それも身分不相応なくらい良いものを。 あのころ香港で出会ったお金持ちたちに習い、財布に注意を払い、ていねいに扱うのだ。 ぼくの場合は、レシートやポイントカードなど余計なものを財布には入れず、できるだけきれいなお札だけを向きを揃えて入れるようにしている。 忍ばせるカードも必要最低限にする。
お金と人は似ていると思う。
いい加減に扱ったり、粗末にすれば、自分から逃げていってしまう。 きちんと向き合わないとダメなのだ。 お金が財布から出ていくときは「いってらっしゃい」といい、入ってくるときには「おかえりなさい」と言ってみる。 かといって執着しすぎてもよくない。 追えば逃げるのは人もお金も同じである。 丁重に扱えば、逃げていかないし、逃げてもふたたび戻ってきてくれる。 そういうものだ。
財布はお金の高級ホテル
とでも思えばいいかもしれない。
よいサービスを心がければ、きっとまたステイしてくれる。
お金に困っている人は、その前にお金を困らせたのだ。
かつてのぼくのように。
おたがい気をつけましょうね。
ぼくにしてはめずらしくお金の話です。 「あまり縁がないですから」なんてこともいってらんないですからね。
コメントをいつもありがとうございます!
お返事は「音声ブログ」で! → こちら
最近のコメント