年に数回、温泉にいく。
人生後半戦ともなれば、さすがに身体にガタがくるのだ。
温泉とはそのような40代以降のおじさんおばさんの楽しみだと思っていたら、このごろは(だいぶ前から?)20代でも相当な温泉ファンがいると聞き、なんだかフクザツな気分である。 「日本の高齢化」はなにも実年齢のことだけじゃないんだなあという気がする。
温泉の楽しみは、なんといっても大浴場である。
食事や露天風呂は、いわば「ついで」である。
そんなのわざわざ温泉に行かなくたって銭湯でいいじゃん、と言われてしまいそうだけど、やっぱり開放感が違う。 ぜんぜん。
たっぷりのお湯に首まで浸かり、ぼんやりとあたりを見渡せば、実にいろんな形をした男たちの身体を見るハメになる。痩せている人、太っている人、背の高い人、低い人、若い人、年老いた人。 それらはもう、さながら人間の標本のようである。
目をそらそうとしても、つい視線が止まってしまうのは意外にも「お尻」である。 湯気でけむっているということもあり、浴場では顔の作りよりもボディラインが目立つのだ。 飽食列島ニッポン、それゆえお腹のラインはしょうがないとしても、意外とヒップラインは美醜の分かれ目として重要なポイントであることに気付かされる。
日本はサラリーマンが多く、サラリーマンは事務職が多い。 それは勤続年数に乗算され、務めるほどに座る時間が増長される。 だからどうしても椅子に押し付けられたような「扁平尻」の人たちが多い。 おまけにその部分がやけに黒ずんでいる。 湯けむりでは隠しおおせないほどに。
相撲取りが太っていながらもカッコイイのはお尻の形がいいからだ。 逆に、どんなにスタイルが良くてもお尻の形がすべてを台無しにしているといえるかもしれない。 欧米人や黒人に比べ、日本人がみすぼらしく見えるのは「背格好ではなくお尻」に原因があると、過去に痛感したことをあらためて思い出す。
そもそもお尻の形なんて、本人はほとんど自覚がない。
特におじさんはそうだ。
正面の姿だってろくに見やしないのに、背面ならなおさらである。 女の子のお尻は気になるけど、自分のお尻なんて屁とも思わない。 屁はこくけれど。
そんなことを思いつつ、あたりの「お尻」を観察しているぼくである。 思考がカラめぐりし、やがてのぼせてしまうほど湯に浸かっている自分に気づく。 「男たちの尻々を眺めながらのぼせてちゃってる中年男」それは相当あやしい光景にちがいない。 がともかく、いくら若作りをしてもお尻でバレるのだ。
「頭隠して尻隠さず」とは、このことをいうのだろう。
人間は壮年期を過ぎれば、年追うごとに筋肉が減る。 目立つのは下半身。 筋肉を失えばばその分脂肪がつくから中年時代は太ってくるものの、老年期に差しかかればおのずと脂肪も減ってくる。 伸びきり、だらりと下がる腹の皮、そして尻の皮。 温泉に浸かりながら、老いとは悲しいものだなあと思う。 時はすべての人に平等だが、尻の垂れ具合は長年の生活習慣によるかもしれない。
人間は本来、現代人よりずっと尻の形が良かったと思う。
立ち、しゃがみ、歩き、走る、それらが今よりずっと多かったはずだからだ。 机にかじりつくことも、ソファでくつろぐこともない。
ぼくは35で自分の尻の貧相さを実感し、40を過ぎてからはスクワットとランジを欠かさないよう努めてきた。 実際のところ、老いは下半身からやってくる。 歩かず、立たず、走らず、では衰えは眼に見えてあらわれる。 老いて介護が必要になる人はたいてい下半身に原因があるものだ。 「転倒」がきっかけで歩けなくなり、そのことで脳の老化が早まる。 思えば車椅子に杖にオムツ、どれも下半身をサポートするものばかりである。
ラクをすれば、しだいにお尻の形は悪くなる。
だから、そのひとのお尻を通じて生活が見えもする。
伴侶を選ぶなら相手の「お尻」具合をチェックだ。
伴侶に苦労させたくなければ「お尻」を鍛えるのもひとつ。
将来、介護地獄から距離を置けるかもしれない。
髪は女の命、尻は人の命
かもしれない。 気をつけよう。
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