「痛みを与えた側は忘れやすく、与えられた側はそれを容易に忘れることはできないものです。この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明いたします。」【2010年8月10日 毎日新聞】
日韓併合100年にあたり、この答弁が閣議決定されたあと、菅首相は韓国の李明博大統領に電話でこんなふうに説明したという。 韓国政府当局者はこれを評価しつつも、「歴史問題にはもっと踏み込んでほしかった。」などとコメントしたとある。
痛切な反省と心からのおわび・・
なるほど、いろんなおわびの表現がある。 謝罪を繰り返すほどにコトバは、そのものものしさとはうらはらに辺りを空虚にさまよい、どこにも届かない。
要するに軽いのだ。
韓国や北朝鮮が主張するのは、残虐な日本によってそれまで500年以上も平安に続いた李氏王朝朝鮮(李氏朝鮮)を武力によって侵略され、1910年から1945年までの間、国王、主権、土地、資源、国語、生命、姓名を奪われ続けたというもの。 これを「七奪(チルタル)」という。
これが事実なら、あんまりである。 いくらなんでも奪い過ぎというものである。 ドラマ『チャングムの誓い』の影響からか、李氏王朝を日本ではちょうど江戸時代のように平和で豊かな時代というふうにとらえているから、これを破壊し日本の都合でこの国を翻弄したとあれば、内政干渉どころの話ではない。 つまりはアメリカが日本にしたように、こんどは日本が李氏朝鮮に対し、強制的に開国を迫ったことに罪悪感を覚えるのは至極まっとうなことのように思われる。
ところが事実はそうではなかった。
李氏王朝末期の朝鮮半島は両班(ヤンパン)と呼ばれる不労所得の官僚達が民衆への際限のない搾取で棄民・餓死者が続出する状態であった。 イメージとしてはちょうどいまの北朝鮮に近い。
▲ 貴重な100年前の朝鮮半島の写真。一見、現在の北朝鮮の離散家族写真のようにも見える(ドイツ人ワルデマール・アベク撮影)
500年以上も続いた李氏王朝。
しかしその成り立ちはいわくつきである。
14世紀の終わり、当時の中国(明)と朝鮮(高麗)は戦争をしていた。 ところが密かに敵に通じていた高麗の重臣、李成桂の裏切りにより自国の王が殺され、これをきっかけに高麗は明に敗北した。 こうして1392年、李氏王朝は明に魂を売り、これの属国のような形で開国したのだ。 ゆえにこの国の宿命として、民ではなく中国の顔色をうかがいながら国を運営していくことになる。 このあたりもソ連の支援で開国したいまの北朝鮮そっくりである。 でもまあこんなふうに建国されたから当然ながら国内に敵は多かった。 そこで寝首をかかれ権力を奪取されないよう、常に人々の移動を制限し、恐怖政治を強いることになる。 川には橋を架けず、道路は整備しないなど交通インフラを未開拓のままにした。
惰眠をむさぼり中国(清)に依存しようとする朝鮮、これに終止符を打ったのはロシアや欧米列強に対抗しようとした「日本の事情」であったともいえる。 朝鮮を清から独立させ親日政権を樹立させようと起こしたのが日清戦争、続いて南下するロシアに朝鮮半島をとられまいと起こしたのが日露戦争。 日清、日露の両戦争の背景には常に朝鮮半島があった。 いまにして思えば、あのときの日本はいささか強引すぎたかもしれない。 けれども、何もしなければロシアや列強が虎視眈々と中国大陸に進出し、朝鮮はロシアの手に落ちていた。 やがて釜山あたりにロシアの軍港ができてしまうころにはもう、ロシアから侵略を阻む策は日本にはない。
そうなれば、歴史はいまとはずいぶん変わっていたはずだ。
欧米列強のアジア侵略は、日本という砦がなくなってしまえばほぼ抵抗なく片がついていたに違いない。 ロシアがフランスがイギリスがアメリカがドイツが、その利権をめぐってアジアを蹂躙したはずだ。 それが白人による帝国植民地主義が肯定されていた時代のルールである。 その後のアジアがどうなっていたかは、アフリカ大陸をみれば容易に想像がつく。
日露戦争の歴史的意味合いはここにある。
日本を勝たせたのが神による仕業なら人類はもっと神を信じるべきだし、そうでなく自ら勝ち取ったならば日本人はもっとそのことに誇りを持つべきだろう。
その日露戦争が始まる前の年である1904年、日本による朝鮮半島の資金援助が始まった。 まず、財政顧問である目賀田種太郎を朝鮮に派遣し、財政支援の計画が立てられた。 当時の朝鮮の国家収入は748万円(当時の価値で)。 これに対し日本の援助は3000万円。 国家収入の実に4倍もの資金を日本の国税で賄なったのだ。朝鮮への補充金や借入金、御資金などはそれから延々と1945年の終戦まで続いた。 投資と見返りをみれば、のべ20億円以上もの赤字である。 これはいまの価値に換算すると実に21兆円。 これらは回収されることなく、戦後そのまま韓国/北朝鮮の資産となった。
加えて膨大な民間企業の資産、日本人の個人金融資産がそれぞれあったが、戦後すべて北朝鮮と韓国に没収された。
当時の日本は当然ながらいまほど裕福ではない。 東北などの農村では人身売買があたりまえのように行なわれ、一般民衆はつつましい暮らしを強いられた。 そんな民の血税を、当時の日本政府は朝鮮半島のために費やしたのだ。 推進したのは他でもない伊藤博文や大隈重信ら。 伊藤博文は知っての通りハルピンで無学な朝鮮人のひとりに射殺されてしまったが、本来なら日本の貧しい農民に殺されてしまったかもしれない。 それほどまで、政府は自国の貧困を見殺しにしてでも朝鮮や台湾、満州に国家予算をまわしていた。
▲ 伊藤博文をテロで暗殺した案重根(あんじゅんぐん:韓国ではヒーローであるから切手の絵柄にもなった)
▼ ナベアツか?てなくらい似ているが
さて、こうした資金はどこに費やされたのか?
まずこのお金で、朝鮮半島全域にそれまでなかった鉄道が敷設された。終戦のその年まででのべ6600km。 李朝時代の交通手段は人間か牛の背中であったことを思えば、そうとうな近代化が達成された。
▲ 日本統治時代に敷かれた鉄道路線図。現在使われている路線図とほぼ一致している。
それから学校の設立。 日本統治前までは寺小屋のような朱子学を教える書堂で14万人の学童がいたが、ここに近代的な学校を5200校も建て、本格的な授業を240万人もの子供や青年に受けさせた。 加えて大学を設立。 京城帝国大学の創立は大阪帝大や名古屋帝大よりも早い。 さらには近代的な病院を数多く作り、疫病や風土病から住民を守った。
他の欧米列強の植民地政策は基本的に原料収奪型である。 資本は投下するが、その見返りは商品となって、ほぼ宗主国に還元される。 現地では愚民政策をとり、教育や現地人のためのインフラ/殖産興業には手を付けない。 知恵をつけて歯向かわれては困るからだ。
ところが日本が朝鮮や台湾で行なったことは意味合いが違う。 とくに朝鮮半島ではそうだった。 膨大な資本投下の結果、当時の北朝鮮地域は日本にあるどの都市よりも重化学工業が発展していた。 英国やフランスでは考えられない植民地経営だ。 ともかく、北朝鮮が主張するような750万人の日本への強制連行はあり得ない。 むしろ人手不足なほど高額での就労機会があったからだ。
また、日本は朝鮮からハングルを奪ったとあるが、むしろ逆だったようだ。 李朝時代に両班に蔑視され禁止されていたハングルは、日本人の学校教育によって復活された。 当時の教科書には、はっきりとその痕跡が残っている。
さらに日本は禿げ山だらけだった産地に植林を施し、治水、治山を行ない灌漑農業を起こした。 李朝時代は雨水だけが頼りの農村は、瑞々しい水田へとかわった。
▲ 貴重な100年前の朝鮮半島の写真。日本統治前まではどの写真を見ても、背景はこんなふうに禿げ山だらけであった。(ドイツ人ワルデマール・アベク撮影)
とまあ、かいつまんで記してもざっとこんな感じだ。
思うのだけど、これのいったいどこが「多大な損害と苦痛」なんだろう。 どこでどう曲解すれば 「痛切な反省と心からのおわび」につながっちゃうんだろう。
こうした日本からの投資は、もしかしたらありがた迷惑だったのかもしれない。 大きなおせっかいだったのかもしれない。 それはそうとしても、おそらく当時の日本人達は本気で朝鮮半島を豊かに、そして餓死寸前の人々を助けたいと思ったんじゃないかとも思う。 解釈がどうあれ、こうした近代化が朝鮮半島に何をもたらしたかは、ともあれ人口推移を見れば明らかなんじゃないだろうか?
▲ 朝鮮半島の人口推移【引用:韓国教師用国定歴史教科書】
日韓併合直前の朝鮮半島の人口は1,313万人。
やがて32年後の1942年は2,553万人となり、倍増した。
なんだかんだ反を唱えても、つまりはそういうことである。 韓国が主張するようなことを日本がやっていれば、人口は減ったとしてもまず増えることはなかったであろうから。
毎度のように繰り返される韓国政府への謝罪。
それが年々空虚になっていく理由は、だれより謝罪する本人達がいちばん知っているんじゃないだろうか。
いや、むしろ謝罪される側かもしれないが・・・
長い記事にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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