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その是非はともかく、
気づけば、以前に比べぼくたちはずいぶん
他人と接続しやすい世界で暮らしている。
ケータイ、メール、ブログ、SNS、ツイッター・・
ひととひとがつながるのは、実にたやすい。
そのいっぽうで、リアルな人間同士のつながりは
まるで反比例するかのように希薄になったといわれる。
「人間関係が希薄になった・・」
そのコトバ自体は、ネットも何もなかった時代から聞く。
決していまに始まったことじゃないし、そもそも
何に対して希薄なのかすら、あいまいだ。
ただ、ネットの世界での人間関係は限定的である。
いや、いまやそのことはリアル世界も同様だ。
2005年、ついに単身世帯は核家族世帯を超えて
日本でもっとも多い世帯(31%)となった。
おひとりさま大国ニッポン、である。
しかもコンプライアンスだの、個人情報保護法だのと
ただでさえ多かったルールは、さらに増え続け、
人々は互いに「正しいこと」を押し付けあう。
これが他人を信用しにくくなる原因になり、
関わりを限定的にしておこうとする心理につながる。
条件が合うところのみ承認したりされたりするのだ。
でも人は本能的に、どこか
無条件に承認されることを求めてはいないだろうか?
無条件で自分をうけいれてくれて、安心できるつながりを。
会社、学校、家族、恋人、ともだち・・・
帰属しづらくなった共同体は、どこへ向かうのだろう?
自分がきょうなにを食べたか、会社で何があったか、
恋人とどう過ごしたか、子供がどうだったかなどと
他人にとってはどうでもいい内容が、ブログやSNS、
ツイッターやUストリームなどに、
もう、うんざりするほどあふれている。
しかも海外で見られるような議論ではなく、ただの共有。
「ねえねえきょう、こんなことがあったの」 と。
企業の個人情報漏えいには、神経質すぎるほどなのに、
自分の子供の写真を公開するのはわりと平気である。
不思議といえば不思議である。
▲ ひと言も発さず、ただひたすら花火大会の様子をケータイでどこかに報告し続けるカップル。 これをコミュニケーションというのなら、なにが非コミュなのだろう? 【多摩川の花火大会にて】
今日あったことのすべてを語り、
プライベートなことを公開し続ける背景には、
自分を無条件に受け入れて欲しいとする
無条件承認の心理があるようにぼくは思う。
ぼく自身にも、あるに違いないが。
他人とカンタンに接続しやすくなった時代。
でもその関係性を強化することはカンタンではない。
あらためて問われるのは、コミュニケーション能力。
はじまりは「発信」ではない。 「観察」だ。
リハビリをかねて、こっそりと更新してみました。 ブログで個人的なことを発信し続ける背景には、行き場を失った承認欲求のようなものがあるのかもしれませんね。
[http://www.voiceblog.jp/naokintokyo/1210875.html:title=『ポッドキャスト版 東京イラスト写真日誌』] ↑ ひさしぶりにコメント返しを音声でお届けしています
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