『メメント・モリ』という不思議なタイトルの本。
それを手にしたのは、ぼくが20歳のころだったと思う。 野犬に食べられる人間の屍体の写真があり、「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」という衝撃的なコピーがこれに重ねられていた。 藤原新也の作品である。
メメント・モリとは、ラテン語で
「死を想え」という意味だ。
これまで「死にたい」と思ったことはないだろうか。
ぼくにはある。 あなたにもあったかもしれない。 実際に死のうとした人もいるかもしれない。
「死にたい」と思うシーンはさまざまだ。 失恋、失敗、疎外感、苦痛からの逃避、嫉妬、絶望感・・。 18の時のぼくが風呂場で手首を切ったときは、閉じこめられていた「本当の自分」を解放したいという動機だったような気がする。 こんなのは自分じゃない。 本当の自分はこんなもんじゃない!という魂の叫びのようなもの。 それが持て余していた若さに火をつけたのだ。
リストカットといった自傷行為は、死そのものを望んでいるのではない。 痛みを感じたり自分の血を見ることで「生」を再認識することだと思う。 死の淵に立つことで、急に生への渇望が芽生えたりもするのだ。
その数週間後、ほとんど家出同然でロンドンへ旅立った。
人は暮らそうと思えばどこでも暮らせるし、やりたいことがあれば誰にも命令されず自分にはできる。 そんなことを10代の終わりに経験できたのは幸運だった。いまやるには、あまりに世の中を知りすぎている。
自由というのは実は窮屈だ。 なんの指針もマニュアルもない。 「みんなと同じように生きる」ことは不自由だけど安全だ。 徒党を組み、はみ出すことがあれば「ダメだよ、同じじゃなきゃ」と修正しあう。 互いに窮屈さを押し付けあう。 そういう人たちが日本にはたくさんいる。 共同幻想ともいうし、世間ともいう。空気を読むともいう。
いちどそういう輪からはみ出てしまえば、あんがい気楽になる。 それでも周囲と同じでないことに焦ることがあるとき、ぼくは無意識に死を想う。
なぜなら「死」は「生」の写し鏡だからだ。
自分にとって偽物の生き方をしていないかどうか? そのことをことあるごとに顧みるのはとても肝要だ。死の直前、自分に「おまえはよくやった」といってもらえるかどうか、大事なのはそのことじゃないかと思う。 常にマイノリティであること。 それを恐れないこと。
誕生日が来るということは、またひとつ死に近づいたということだ。 だから誕生日はそれほどおめでたくはないのかもしれない。 だけど「メメント・モリ」のきっかけにはなるなら、それもいい。
誕生日に死を想う、だ。
より生きるための、メメント・モリ。
■ この記事はこれで書きました
キッチンのコードレスパソコンとしても活躍しますねiPad。 以前iMac用に買ったワイヤレスキーボードと、CDラック用の簡易スタンドがいい感じで使えます。
「死にたい」はつまり「生きたい」の別のいい回しかと
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