ぼくたちはいつも誰かのことを思っている。
それはなにも「意中のひと」に限らない。
仕事をしていれば取引先の人、部下や上司、それから
家族や友人のこと、あるいは朝の通勤電車でぼくの足を踏んだ
あのサラリーマンでもある。
誰かを思うとき、
おそらくはその人の顔を思い浮かべるものだ。
それは人格という抽象的なものではなく、具体的な顔。
それから表情。 笑い顔、怒り顔、泣き顔、すまし顔といった
「こんなことをいうと悲しむだろうな」
そう思いながら、相手の悲しむ顔を想像したり、
「こうしたら喜んでくれるだろうな」
と相手の喜ぶ顔を思い浮かべて幸せな気分になったりと
そのようにしてぼくたちはまいにちを暮らしている。
電話が、そしてネットが普及してからはしだいに
互いに会ったことのない人との会話や、やりとりも増えた。
「誰か」とはまた、もろく、はかなく、壊れやすい。
ときにあったこともない人から突然、告白される。
次に、あったこともない人から突然、罵倒される。
そんなときぼくは「顔」を求めてうろたえる。
「表情」を求めてさまよう。
うっかり『2ちゃんねる』などを閲覧してみれば
ぼくはまず、このようなコミュニケーションのあり方に
おどろく。 そして、たいていは悲しくなる。
「互いの顔の見える場所」でもこのひとは、
やはりおなじセリフを吐き捨てるのだろうか?
そんなことはない、と言い聞かせるように信じる。
顔の見えない場所からのメッセージは、どこか空しい。
それでいて、相手を深く傷つけることもある。
「よく荒れないですねえ・・」
ぼくのブログを見た友人たちがときどき感心していう。
いわれてみればたしかにそうだね、とぼくも認める。
思うにブロガーは読者を選べない。
メッセージがどう伝わったかを、把握することもできない。
あげく、
「ブログで顔を見せるなんてとんでもない!」と誰もがいう。
事実、プロフィールに顔を出しているブロガーは少ない。
「女性だから」というひともいるが、男だってそうである。
誰が見ているかわからない。「キケンだから」といいつつ、
しかし我が子の写真は平気で出してしまっている。
ひとびとから表情が消え、顔が見えない。
コミュニケーションはほんらい、会っておこなうものなのに
そうでない手段がありすぎて、ぼくたちは絶えず渇いている。
ちょっとした依存症にすらなり、互いになれあっている。
Twitterにおいては、見知らぬ人のつぶやきまでが交わされる。
それでもひとは、いつも誰かのことを思ってすごしている。
相手の顔にかわる何かを、別のものにおきかえて思う。
嫌いな人におきかえたり、好きな人におきかえたりしながら。
あまりに虚無なものにおきかえられないよう、
ぼくは「顔」をはじめから出している。
見知らぬ人に対しても。 いや
「見知らぬ人」だからこそ必要だと思うのだ。
こんな時代だからこそ、人はやはり顔である。
顔の美醜ではなく、「顔のあるメッセージ」であると。
なんだか「ものおもふ」かんじになってしまいました
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