どこもかしこも不況である。
口を開けば誰もが唱える不況ということば。
これを不況和音という。
でもね、見方を変えちゃえば
不況に甘えちゃっているようにも感じる。
不況をいい訳に、できないことを正当化しちゃってる。
これじゃ、ただの不況の二次災害だ。
昨今のスローライフ・ブームはどうもぼくには薄気味悪い。
「何となくエコ」に浮かれ、本来の生存競争をあきらめる。
そんな姿勢がどうも透けて見えてしまうからだ。
生存競争を失えば、残るのは貧困しかないだろうと思う。
以前、香港の会社で人材を募集したときのこと。
安く雇える人は多いけど、どうも希望する能力に乏しい。
希望する能力のひとは、いるにはいたのだけど、
とても払えないような給料を要求する。
ところが香港からわずか数十キロ、北へ移動すれば、
超一流大学卒で、社会人経験を3年こなした理工系人材が
わずか月収8万円、30代のエース級ですら25万円で雇える。
ボーナスは年間で1ヶ月分もあればじゅうぶんだ。
「うかうかしていると優秀な中国人に職を奪われる」
香港人の危機意識は相当なものだが、もっともだと思う。
ここ日本でも、日中賃金格差はやがてなくなるかもだ。
グローバルに「同一賃金、同一スキル」を照合すれば
いまもらっている給料は、半分が妥当かもしれない。
不況よりもっと深刻なのは、このことだ。
そんな危機意識は、むしろ不況の前にかすむ。
自分ではなく、世の中のせいにされる。ごまかされる。
ワーキングプアだの、最低賃金を補償しろだのと、
自分の能力や努力不足はさておき、国や社会や会社など
まわりの多くに要求しすぎてやしないだろうか?
また、人生のいったいどんな試練と戦っているのか、
「癒されたーい」と連呼する20代のひとたちには
ついつい、違和感を感じてしまうのだ。
ぼくだけかもしれないが。
もちろん「居心地がいい」環境はぼくも好きだ。
けれどもそれ以上に危機感も覚えるのだ。 そのことが、
自分の住む場所や国を変え続けた理由のひとつでもある。
人間は本来、持っている20〜30%の能力さえ発揮すれば
職場をクビにならない程度のパフォーマンスがでるといわれる。
でもそうやって定年を迎えて、いったい何が楽しいのだろう?
望ましいのは「今の自分ができないこと」が意識される環境。
そりゃまあ辛いし、しんどい。 居心地だって悪い。
けれども「自分の能力が発揮できる」という快感は
それらを補ってなお、おつりがある。
20%だけだなんてイヤだ。 ただの飼い殺しじゃないか。
ひとは癒されるために生まれてきたんじゃない
それが今回のテーマである。
不況で周囲がしょげている今こそ、実はチャンスなのだ。
「癒し」とはほんらい、戦うひとへのご褒美だったはずですよね
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