ぼくは献血ができないカラダである。
政府に「血が汚染されている」とレッテルを貼られているからだ。
ひどい。 まるで欠陥商品のようじゃないか。
1995年に英国で暮らしていた、というのがその理由だという。
そのころ英国では、狂牛病(ヤコブ病)で死人が出ていた。
これに象徴されるわけじゃないけど、ロンドンで暮らした1年間は
ぼくにとって、あまり楽しい思い出は少ない。
好景気に沸くブレア政権の少し前、メージャーのころである。
1995年はまた、インターネット元年でもあった。
ぼくはそのことに誘発され、いても立ってもいられず独立し
英国で友人と会社を立ち上げ、これの共同経営を始めたのだ。
その会社は現在もあるが、当時はとても過酷な日々だった。
社長とは名ばかりで、まるで出稼ぎ強制労働者の気分だった。
土・日に関係なく、毎日18時間は働いた。 飛び回った。
38度という高熱にもかまわず、車でバースに出張したこともある。
月に一度、ドイツの自宅へ1泊ほど里帰りが許された。
当時ぼくは32歳、なにしろ若く、タフだったように思う。
いまじゃとてもじゃないけど、できない。
大好きなブリティッシュロックの本場、ロンドン。
しかしクラブやライブハウスに行く機会はほとんどなかった。
大好きなセックスピストルズの再結成コンサートがあった日すら、
迫る納期に間に合うよう、デスクにかじりつかねばならなかった。
コンサート会場と、20kmも離れていないオフィスの一画で。
苦しかったが、それなりに得るものはあった。
英国人相手に喧嘩をしながら、ITリテラシーを骨身に染めた。
それは、その後のキャリアアップへと大きくつながり、
ITを用いたビジネスの感どころを養う糧となった。
それから、淡く小さな恋をした。
もちろんそんな恋のために割ける時間などぼくにはなかった。
もっとも相手にもその気はなかった。
一度か二度、いっしょに食事をしたような気もするし、
しなかったような気もする。いまは顔すら思い出せないが。
記憶にあるのは、その子の首筋にあったキスマーク
それがバイオリンでつく痕だということは、
だいぶあとで知ったのだけど。
あのころのぼくは、
織りなす糸のすべてをたぐり寄せるように
あらゆるものを手に入れたがっていた。
会えるだけの人に会い、出来ることはすべてしようとした。
だけどあの時代のインターネットは、つくづくひどい代物だった。
インターネットで商売とは何事だ!と世界中の人たちに叱られ、
どの企業も、ネットでビジネスをすることに逡巡していた。
おかげで、連日ぼくは資金繰りにもがき苦しんでいた。
食事をとる時間もなかったが、食事をするお金もなかった。
2005年の東京-香港生活はほんとうに苦しいものだったが、
1995年のロンドン生活を想い、なんとか踏ん張った。
人は苦しいときほどストレッチするものだ。 伸びるのだ。
できれば苦労はしたくないが、しておいても損はない。
10年ごとの災厄。 やれやれ次は2015年かな?
と、いちおう覚悟はしているのだけど・・
苦しいことはできれば避けたい。でもね、それもちゃんと意味があるんです
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