1941年12月、日本とアメリカとの間で戦争が起こった。
このことは学校で習った通りである。
けれども、「戦争をけしかけたのは日本ではなくアメリカであった」といわれれば、意外に思うかもしんない。
「軍国主義の日本はハワイに奇襲をかけてアメリカと戦争を始めた」教科書には、きっとそんなふうに書いてあっただろうから。
今も昔もアメリカはあちこちで戦争をしている。
また、兵士を送らずとも兵器は送っている。
なぜか?
「国益になるから」 それだけである。
人道も、民主主義も、経済合理性も、覇権も、そのあとの話だ。
逆に言えば、国益にならなければ、人道も、民主主義も、経済合理性も、覇権も、あり得ない。
よくも悪くも、それがアメリカという国の本質である。いかなるときも目的と手段を履き違えないのが、この国のすごいところだ。
しかも「国益」の享受者は必ずしもアメリカ国民全員ではない
というのがややこしい。 このテーマは実にややこしいのだ。
しかしアメリカの「戦争の始め方」はいつもワンパターンである。
1.兵器を送って、他人に戦争させる
2.爆弾を落として、敵の戦意と国力を低下させる
3.時間を稼いで、圧倒的な数の兵隊を戦場に送る
アメリカとの開戦の4年前である1937年、日本と中国との間に戦争が勃発した。このとき中国兵が戦っていた兵器や軍事物資はアメリカ製であった。さらに航空機に至っては米国はパイロットごと中国に派遣していた。 中国(国民党)と日本を戦わせたのは、ソ連の命による中国共産党の陰謀だ。 そして中国に日本との戦争をやめさせないうようにしたのはアメリカである。
なぜか?
当時、極東アジアにおける日本の台頭は、彼らの国益を失わせる存在であった。 よって米英ソが共通する利害は「日本を直接たたく前に弱らせておく」ことで一致したからでる。
ある国の為政者が戦争を始めたいと考えても、そう簡単には発動できない。 それには大義名分が必要なのだ。 これはどんな戦争においてもだ。 テロやケンカならともかく、戦争は最も高度な政治的手段のひとつである。 「軍の暴走」なんかじゃけっして戦えない。兵も人の子、家族がいるのだ。
繰り返す。
戦争には自他共に説得できる理由、大義名分が必要だ。
1930年代、ドイツはベルサイユでの屈辱を利用し、ソ連はコミンテルンを、中国共産党は貧しい農民を救うことを、日本は欧米植民地からのアジア解放を、アメリカは民主主義をうたうなど、それぞれ戦争の大義名分を得ようとした。
1932年の大統領選でルーズベルトは国民にこう約束した。
「あなたがたの息子を戦場に送ることはぜったいにしない」と。
第一次大戦を経て、欧米諸国民は戦争はもうこりごりだった。
そのことは戦後の日本を思えば、容易に理解できるはずだ。
「なんでアメリカが他国の戦争に首を突っ込まなくちゃならないんだ」と考えるアメリカ人はとても多く、だからルーズベルトは当選したのだ。
しかし1940年になると、この当選理由があだになった。
その頃ナチスドイツはベネルクスとフランスを降伏させ、破竹の勢いで英国に、翌年にはソ連に対しても優位に戦っていた。
「このままだとヨーロッパはドイツのものになる」
するとこんどは大西洋が危ない。自国の通商海域である。
ルーズベルトは焦った。
けれども「親の心、子知らず」である。 米国民は自国が参戦するのを嫌がった。
アメリカは星条旗が犯されないと戦争を始められないのだ。
これは今なお変わらない。 9.11を例にあげるまでもなく。
ドイツにいくら戦争をけしかけても全然乗ってくれない。 ヒトラーは前大戦の蹉を踏むことを恐れ、アメリカの挑発には乗らない。
そこでドイツの同盟国日本。 ルーズベルトは矛先を変えることにした。 いずれにしても日本とは、やり合わなくてはならない相手だった。 やつらに星条旗をけがさせられれば、報復として開戦の大義名分ができる。
そして、その通りになった。
■ 潜水艦バウフィン号
▲ もっとも日本の艦船を沈めた潜水艦として英雄的存在。これ1隻で4〜5万人の日本人将兵が殺された。その中には沖縄から長崎へ疎開しようと子供や女性たちの乗った輸送船をも含まれる。
▲ 艦橋部分に描かれた撃沈マーク。(記録には44隻沈めたとある)
▲ 潜水艦内の魚雷発射装置
このころ、アメリカは日本の暗号文はすべて解読済みだった。 この事実をないがしろにしている文献があまりに多いが、事実だ。 日本海軍の航空機による真珠湾攻撃にしても、もれなく察知されていた。 ていうか、アメリカ側は自国が攻撃されるよう、あらゆる手段でけしかけた。 (戦後明らかになったが)むしろ攻撃が成功するよう、手助けすらしていた。
あとは攻撃が「だまし討ち」によって引き起こされるようにするだけだった。 でなければアメリカ国民は、議会は、ぜったいに開戦に賛成してくれない。
もともと日本側に真珠湾攻撃を「だまし討ち」する計画はなかった。 最後まで和平交渉をあきらめなかったし、11月に出港した空母機動部隊にしてもアメリカとの和平が成立すれば、攻撃せずに日本に引き返すことになっていた。
そもそも日本政府は国際ルールにのっとり、「宣戦布告」をしてから戦闘状態にはいるつもりで準備していた。 しかし外務省がチョンボをしでかした。 ワシントンの駐米大使館である。
「この暗号文を翻訳し、もって翌朝7時までにワシントンに伝えよ」
と本国から厳命されていたにもかかわらず、同僚の送別会で前夜に大酒食らい、こともあろうに朝遅刻し、「宣戦布告文」をアメリカに伝えるのが遅れたのだ。何でよりによってこんな時期に送別会などのんきなことをやっていたのだろう?
そして結局、宣戦布告文のはいった書簡を米国側に手渡したときは、時遅くすでに真珠湾攻撃が終了した後であった。
日本はこれでヒール役(悪者)となった。
「リメンバー・パールハーバー」が意味するのは、卑劣なジャップによって星条旗が「だまし討ち」された日のことをいう。 あろうことかアメリカ人が最も嫌うやり方で日本は戦争を始めてしまったのだ。
その日、米議会は満場一致で日本との開戦に賛成した。
ルーズベルトは始終機嫌が良く顔がほころんでいた、と側近が後日漏らしている。 そりゃそうだろう。 ここまで首尾よくことが運んだのだ。
▲ 対日宣戦布告文に署名するルーズベルト大統領
苦渋の決断で開戦せざるを得なかった日本側とは大違いである。 直前まで日本は、ソ連を仲介してまでも開戦を避ける努力をしていたのだ。
よく「あの戦争は無謀だった」といわれる。
が、ぼくはそれには与(くみ)しない。
それは日本が戦争に負けたからいうのだ。後出しジャンケンだ。
「昨日のことは、昨日の目で見る」
これが歴史に触れるものの共通したルールである。
1941年当時の日米の軍事格差は、1904年時の日露の軍事格差よりも小さかった。 それどころか空母の量やゼロ戦パイロットの質などは英米に勝っていた。
彼我の国力や軍事力だけを見れば、日露戦争でロシアに負ける確率のほうが高かったのだ。
でも日本はロシアに勝ち、アメリカに負けた。
なぜか?
「だまし討ち」にはじまり、欧米を相手に日本は孤立していたからだ。 欧米を相手にひとり立ち向かった日本を、アジアやアフリカの人々は喝采した。 けれども日本を支援するには、彼らはあまりに長く力を奪われすぎていた。
太平洋戦争、日本にルール違反があるとすればそれは「始め方」であった。 戦争自体では、ない。 すべての国には交戦権が認められているからだ。
結局のところ、勝敗の要になるのは「情報戦」の考え方である。 アメリカは巧みにこれを利用し、日本はそれを潔しとしなかった。 日露戦争ではあれだけ「情報戦」を重視した日本が、である。
真珠湾攻撃が「だまし討ち」でなければ、米国市民の戦意をあそこまでかき立てはしなかっただろう。 ともすれば、和平交渉で戦争を一年かそこらで終わらすことはできたのだ。
あそこまでの空襲を、少なくとも原爆の使用を米国民は許さなかったはずだ。
となれば、悔やまれるのは「開戦前夜の駐米大使館の酒宴」である。 外務省官僚は今も昔も、相変わらず国民のほうを向いていない。
しかしこれにも異論がある。 あの酒宴すらアメリカに「仕組まれた」可能性があるとぼくはみている。
▲ 真珠湾攻撃によって沈められた戦艦アリゾナは当時のまま残されている【アリゾナ記念館】
▲ 68年経ったいまも1177名の乗組員がこの海底に眠る墓場である。その怨念か、いまだに艦内のオイルが漏れて海面に浮かぶ。【同上】
いずれにせよ、日本の敗因は国力ではなく「情報」である。
ここでいう「情報」とは、「生存のための合理精神」に基づくことをいう。
2010年、日本はいまだに「情報戦」で負け続けている。
ハワイ諸島オアフ島、パールハーバーの地にぼくは立ち、日本がアメリカにしてやられたことを忘れるべきでない、と強く思う。
リメンバー・パールハーバー
政治の都合で、史実を差し替えられた歴史。
そのことを、ぼくは決して忘れない。
長い記事を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。これでも、原文の3分の1までスリム化しました。
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