「3人よれば文殊の知恵」という。
「みんなの意見は案外正しい」ともいう。
でもこれ、個人的にはあまり信用していない。
だって「適任者がひとりで決めるほうがいい」と思うから。
ぼくは本質的に会議がキライだ。 ここで何度も言っている通り。
みんなで意見を出しあうことをブレインストーミングなどという。
そのルールはどんなばかげたアイデアでも積極的に発言したり、
他人の意見を批判しないというものだ。
「みんなで仲良く」したいのなら、それもいい。
でも、勤務時間以外でやればいいと思う。
できれば人件費はもっと有意義に使いたい。
だいいち、ほかの人の発言によって自分の思考がじゃまされ、
かえって考えがまとまらない。
確かに自分では思いつかなかった考えを他人は持つかもしれない。
見逃していたことを気付かせてくれるかもしれない。
だから、個々の力を合わせれば全体のレベルは上がる。
理屈ではそうなる。 でもたいていそうはならない。
なぜか?
みんなの意見が一致することがまず優先されるからである。
議論は一致する方向に向かう性質があるから、である。
ブレインストーミングだけじゃない、通常の会議においても。
それらで決定されることは危険で勇ましすぎたり、
逆に慎重すぎて新規性に欠けることが多い。
はやい話が、集団による決定は両極端になるということだ。
このことでぼくは、ことごとく商機を失った経験を持つ。
はっきり言おう。
「集団決定の質は、たいてい個人決定の質に劣る」
人は雰囲気に流されやすいものだ。
これはなにも日本人に限ったことではない。
アメリカ人も中国人もドイツ人も英国人もだ。
フランス人でさえもだ。
「みんなの、みんなによる、みんなのための決定」
やがてそれは「みんな」そのものを縛り始める。
”同調の強制”というヤツである。
「みんな」という集団が個人に不寛容なのはそのためだ。
良質であれなんであれ、個人の意見を受け入れにくくするのが
「みんな」という同調集団の本質だと思うし、
それはネットでもおなじみの光景である。
人は関係性の中に生きている以上、
「個人」には逆らえても「みんな」には逆らえないものだ。
「衆愚」への萌芽はそこにある。
人の意見が欲しいとき、ぼくは社内外をくまなく歩き、
キーになる人物から直接話を聞いて回る。
相手を呼ぶ、のではなくこちらから出向く。
相手にとってはアウェイよりホームのほうが本音が出やすい。
反論があればそこで聞く。
代案もそこで聞ける。
いずれにしても会議で得られる成果より、質が高い。
会議に頼る会社は、たいていコスト高体質である。
そのことがホワイトカラーの生産性を低くしていることを、
仕事人ならあらためて認識すべきだろう。
会議そのものは仕事ではない。
仕事はあくまでも現場でするものだ。
ちびきち、なんだかオトナ目線だなあ
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