たとえば車を買い換えるとき、またはテレビを買い換えるとき、あなたはどんなふうにお気に入りの一台を決めますか?
詳しい人に聞く、店員に聞く、ネットで調べる・・・今の時代、手段はいよいよ事欠かない。 そんな時代にあってもぼくはいまだに紙のカタログである。 何社ものカタログを取り寄せ、じっくり比較する。 こういうのは、なかなか至福のひとときである。 ときどき新しいインクのにおいをかいだりもする。
けれどもいったん「お気に入りの一台」を決め手に入れてしまえば、そんなカタログたちも役目を終えてゴミ箱行きだ。
選んで購入したそのカタログを残して。
残ったその美しいカタログを眺めながら「これに決めてよかったよなあ」と自分を納得させているのかもしんない。
人は目の前にあるものを最大価値と思いたい傾向にある。 自分の選んだ一台、建てた家、または一冊、あるいは一枚。
おそらく「人間について」もそうだろう。
はからずもひとは「好意を持った人」には、なるべくいい面ばかりを見ようとする。 顔も声もアタマもカラダも、着ている服も、または仕事や経歴もだ。 いっぽうよくない情報は意に沿わないとし、無視するか否定する。 好きになった人はますます好きになる。 こうしてあばたもえくぼになる。 そういうものだ。
「好き」の反対は「嫌い」ではなく、「無関心」である。
好き・嫌い、はどちらも「関心がある」ということで、同一性がある。 「無関心」からは何も生まれないが、「関心ごと」はエネルギーがあり常に流動的だ。 だから突然、ふとしたきっかけで好きが嫌いになる。 好きと同じ理由で、嫌いになったりするのが人間だ。 理性はここでも感情に負ける。
いったん「嫌い」になれば、人はどんどん嫌いになる。 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」し「かわいさ余って憎さ百倍」なのだ。 嫌いになりながら、同時に自分がなぜこの人が嫌いなのかその理由を見つけようとする。 相手の「あら探し」を始め、上げ足取りをするようになる。
過去、あらゆるきっかけでいろんな人たちがぼくに好意を持ってくれ、やはりあらゆるきっかけでやがて嫌っていった。 ぼくがいかにすばらしいかを説き、やがて同じ口でぼくがいかにダメかを説く。 まだ一度も会ったこともない人たちもこれに含まれる。 ぼくは彼や彼女たちにもたらした変化の「きっかけ」すら知らない。 あるいはぼくが鈍感だけなのかもしれないけど。
けれどもそんな「鈍感さ」にぼくは救われている。
どのみち人はそれぞれに、自ら選んだものを最大価値とするし、選ばなかったものを過小評価しちゃうもの。
ならば周囲の噂に翻弄されず、自らの審美眼を育てるまでである。
ネットの時代はとくに必要なんじゃないかな。
■ ちびきち日記「さあごはん!」
とーちゃんがほんこんというところにに行っているあいだ、ぼくはようちえんの先生のところですごしてたんだよ。これはそのひとこま。でもこのパスタはにんげんのものなんだ。 きたいしてそんしちゃったな、もう。【撮影: wan wan street】
どうせ他人や過去は変えられないのです。変えていいのは自分と未来だけ
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