オフィスそばの公園のベンチで、あるいは電車の中で、カフェで、周囲の誰もが伏し目がち。 視線の先にケータイの小さな画面があるからである。 だれもが熱心に文字を追い、キーを押す。
この光景を平安時代の貴族が見れば、短冊で詩を詠んでいるようにみえるのだろうか。 けれどもその光景、1000年前どころか、ほんの20年前ですらあり得なかったはずだ。
20年前の日本といえば、華やかしバブル時代のただ中であった。 テレビでは「24時間戦えますか」とか「大統領のように働き、王様のように遊ぶ」などといったCMが盛んに流れていた。
当時ぼくは20代半ば。 がむしゃらに働き、ろくに寝もせず朝まで遊んでいるのはしょっちゅうだった。 たいした給料はもらってなかったが、なぜか遊ぶ金はあった。 自分がもっていなくても、誰かがだしてくれていたのかもしれない。
仕事はタフだったけれど、いちど会社の外に出てしまえば追うものはいなかった。 追う手段もなかった。 相手も捕まらなかったし、自分も捕まえられなかった。 上司もお客もかみさんも。 報告を入れないと叱られはしたが、お互いさまだった。 糸の切れたタコのような開放感。 会社も社会もその点は、わりとおおらかだったように思う。
コミュニケーションは、直接会うか電話がほとんどで、あとはせいぜい手紙やファックス、それも手書き。 当時ワープロは清書のための機械だった。 オジサン社員が若い女性社員に「これ清書してくれる?」などとお願いしていた。
いまに比べれば不便で効率は悪かったはずだ。 そのぶん人間くささを認め合う余裕があった。 思えば人と人の間にあまり機械が介在しなかった最後の時代だったかもしれない。
バブルがはじけてしばらくすると、ストレス過多社会とよばれるようになった。 では、ストレスはいったい人びとの意識をどう変えていったのだろう。
△ 【日常生活の中で悩みや不安を感じているか(内閣府調査による)】
この20年間増え続けたのは「不安や悩み」を抱える人たちであった。
原因はいろいろ考えられる。 その中でも特に人間関係の希薄化が大きいとぼくは考える。
メールや電話をかけて応答がなければ不安になり、どこにいようが24時間追いかけ回される。 着信記録と通話記録、受信ボックスに送信ボックス。 その人の行動履歴はそこに集約される。
極論をいえば、いまや人間関係はメールに支配されているともいえる。 空白の時間ができると、なにはともあれケータイのフタを開けずにはいられないひとたち。 ケータイを覗きこむ姿はどこかみみっちく、カッコ悪い気がするものだ。 もしかするとバブル時代が華やかでいられたのは、ケータイやメールがなかったからなのかもしれない。 小さなことにこだわらないスタイルが粋だったのだ。
ある心理学者はいう。
「ストレス解消には、同じ表情やしぐさを相手に行い、共感してあげるとよい」
お互いに笑いあったり、一緒に涙を流したりと、相手と同じ表情をするというだけで、人間は無意識に共感を得る。 「だから自分がいるんだ」という存在意識の確認ができるし、それが自信にもつながる。 自分が微笑めば相手も微笑む。 相手が悲しい顔をすれば、自分も悲しくなる。 これが共感であり、ひとのぬくもりだ。 長い人類の歴史では、これがあたりまえで、このことで都度ストレスは解消されてきたのだと思う。
どんなに絵文字を駆使しても、これをメールで伝えることはむつかしい。 電車で見かけた30代とおぼしき女性は仏頂面のまま、すばやく「(^O^)/ 」と入力していた。 ありきたりのことなのかもしれないけれど、よくよく考えてみれば気味が悪い。 愛の言葉も、友への慰めも、自動変換とコピペですませる時代をぼくたちは生きているのだ。
ある日、知り合いの女の子(20代)が不安そうに愚痴をこぼす。 なんでも彼からメールの返事がこないのだとか。
「で、いつメールを送ったの?」とぼくがきけば、「もう1時間も前なんですよ!」 と被害者さながら彼女はいう。
このことを、あとできっと彼女は彼のことを責めるのだろう。 彼もまたそんな恋愛をめんどくさく思うかもしれない。 こんなふうにケータイは、本来必要のないストレスを、恋人たちの間で量産していく。
「不安や悩み」を持つひとが、持たないひとと半々だったバブル時代を超えてしまえば、あとはその差が開くいっぽうだった。 不安な人は増え、不安でない人は減っていった。 とくにIT元年といわれる1995年を境に、その差は加速的に開いていった。
下のチャートは日本におけるケータイ電話の普及率だ。
とくに1996年から2001年までの5年間に注目すれば、ケータイの普及と、不安や悩みを持つ人たちの上昇曲線に奇妙な一致が見られるではないか。
はたしてこれは偶然だろうか?
また、50代よりは40代、40代よりは30代、30代よりは20代と、世代が若くなるほどに「不安度は高い」というデータもある。 これもまたケータイ依存度に比例していないだろうか。
あの小さな液晶画面の向こうに広がる世界を、ぼくはまだ信用していない。 それがバブル世代を20代で過ごしたオヤジの宿命、というか使命なのではないかと思うのだ。
「好き」という気持ちを伝えるとき、握るのはケータイじゃない。その人の手だ。 by なおきん@ロマン過剰
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