社会が窮屈になった、と思う。
不寛容になった、と言い換えてもいい。
自分よりも「弱い人」や「違う人」に対して、なぜあんなにも不機嫌になったり、攻撃できたりするのだろう。 しかも攻撃は透明人間のそれだ。 見えない場所から陰湿におこなわれる。
思えば「世界同時多発テロ」がもたらしたのは、他人を疑うことをルール化したことだった。 加えて「世界同時不況」は、なりふり構わず保身に走らせた。
ちょっとでも自分より弱い人や違う人のために立ち止まろうとはせず、むしろこれを排除しようとする。 さながらネットはこれのショーケースだろう。 実例の宝庫である。 実体験を通じ、あらためて思う。
立ち止まったり同情などしていたら、たちまち競争社会によって「負け組」に分別されてしまう恐怖。 自分の安心・安全に腐心するあまり、他人をかまう余裕がなくなってしまったのだとしたら、あまりにも悲しすぎる。 こんなにも人は弱いものなのか、と思う。
出来るだけ多くの「愚かな敗北者」を見つけては、これを非難しあう風潮。 「酒井法子事件」や「押尾学事件」もそうだろう。 そもそも自分たちの生活にまったく関係のない彼らをそこまで非難するほど、ぼくたちはエラいのか。 人格者なのか。
「愚かな敗北者」たちを非難することで、「自分は違うから勝ち組」であることを強調したいのかもしれない。 正義を振りかざし、かりそめの安堵感にすがろうと翻弄するぼくたち。
不寛容の正体は、実はその人の弱さであったりする。
繰り返せば「人の狭量化」が進むだけである。
不寛容はまた、自分自身にも向けられるのだ。
日本の年間自殺者は11年連続で3万人以上。 しかも近年は中高年者の割合が高まっている。 「あるべき姿」に自分がなっていないことや、もはやなれる可能性がないことに絶望し、自ら命を絶つのだろうか。 自殺予備軍でもある鬱病患者が激増しているのも気になる。
「勝ち組」や「負け組」の定義や評価は、時の流れに風化するものだ。 「正しい/正しくない」の判断だって、あんがい気分次第である。 あとから出てきたファクト次第では、評価がまったく逆になることもある。
そういう意味で、「自分こそは絶対正しくありたい」とする態度は他人にも自分にも迷惑な話だ。 それより、もっと「あいまいさ」を認める余裕があっていいと思う。 必要なのは、想像力と思いやり。 自分が相手で、相手が自分だとしたら・・・ 「あいまいさ」は想像力を伴う意思であって、優柔不断が根底にあるのではない。
安心・安全な社会は、そこに住むひとびとの広量さにゆだねられるものだ。 安心を希求するあまりに保身になり、人の狭量さを招いてるとすれば、皮肉なはなしではないか。
うるさいと どなるおまえが いちばんうるさい
言葉の暴力は、自分にもダメージを与えるのだ。
競争社会で生き残ろうと「自己アピール」し続け、それに疲れ、あげく敗北感に苛まれている同世代のひとたち。ご苦労さまです。自己アピールなどしなくても、あなたに才能があることはまわりにちゃんと伝わるものです。少しだけ肩の力を抜いて、ゆったりのびのびやりましょうよ。
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